新当流、陰(かげ)流と並ぶ中古剣術流派の一つ。流祖は念阿弥慈恩(ねんあみじおん)。念和尚(おしょう)の伝記には種々の説があるが、通説では奥州相馬(そうま)の人、相馬四郎左衛門忠重(ただしげ)の子、俗名義元(よしもと)のこととし、7歳のとき父が非業の死を遂げたため、相州藤沢の遊行上人(ゆぎょうしょうにん)の弟子となり、10歳京都に上って鞍馬(くらま)で剣の手ほどきを受け、16歳鎌倉に下って寿福寺(じゅふくじ)の神僧栄祐(えいゆう)に秘伝を授与され、その後も廻国(かいこく)修行を重ね、筑紫(つくし)の安楽寺(あんらくじ)に至って、ついに剣の奥義を感得したという。2代の赤松三首座慈三(あかまつさんしゅざじさん)は、遠州の人とも慈恩の舎弟ともいい、信州伊那谷(いなだに)の波合(なみあい)で1397年(応永4)5月相伝を受けたと伝える。さらに3代の小笠原東泉坊甲明(おがさわらとうせんぼうこうめい)は、教授の体系を『念流正法兵法未来記(しょうぼうへいほうみらいき)』入門巻・獅子(しし)巻・虎(とら)之巻・象(ぞう)之巻・龍(りゅう)之巻の5巻にまとめ上げた。越えて1578年(天正6)6代小笠原左衛門尉氏重(さえもんのじょううじしげ)の伝を受けた越前(えちぜん)白山(はくさん)の人友松六左衛門氏宗(ともまつろくざえもんうじむね)(清三入道偽庵(せいさんにゅうどうぎあん))は諸国を歴遊中、上州多胡(たご)郡馬庭(まにわ)村(群馬県高崎市)の郷士樋口又七郎定次(ひぐちまたしちろうさだつぐ)に巡り会い、その執心鍛錬に対し、1598年(慶長3)唯授一人の奥秘を伝授している。この定次が馬庭念流の祖で、高崎城下で天流の村上某と試合して勝ち、その名声を高めた。その後、泰平の世で沈滞を続けたが、享保(きょうほう)の改革を機に13代十郎兵衛将定(まささだ)の努力によって再興、14代定嵩(さだたか)のとき江戸・京橋に道場を開き、その実用的な剣技に老中松平定信(さだのぶ)の賞詞を受け、また18代定尹(さだおき)は徳川斉昭(なりあき)に招かれて矢留(やどめ)の秘術を披露し、水戸藩への出入りを許された。
[渡邉一郎]
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