武家社会において,合戦に参加し功労のあったものに対し,大将がその戦功を賞するために発給する文書。おおむね永続的効力を付与する。鎌倉時代末よりみられ,南北朝時代より戦国時代にかけて多く存在する。差出者が将軍級の人であるときは御教書(みぎようしよ)を用いまた奉書のときもある。守護大名では直状(判物)を,戦国大名は印判状を用いるのが普通である。いずれも文言の終りに〈軍忠尤神妙可有恩賞〉〈尤以神妙也 可抽賞之状〉〈弥可抽戦功之 可有抽賞之状〉のごとくあって〈仍如件〉〈如件〉で結び,年月日を記し,日下に花押を据える。ときには袖判のこともある。つぎにその一例をあげる。〈為御方於所々致合戦云々,尤以神妙也,追可被仰下之状,如件,正平六年(1351)十一月十三日(花押)(足利尊氏) 大隅左京進入道殿〉(《島津家文書》1-232)。
執筆者:高橋 正彦
軍人が戦地で抜群の功績をたてたときに授与される文書。1904年3月制定の〈陸海軍感状授与規程〉にもとづく。授与権者は軍司令官,独立師団長,司令長官,独立司令官その他大本営直属の団隊長。授与の対象は,敵前において軍人の模範となる抜群の勲功をたてたとき,特別の任務を負い危険を冒して敵前で行動して自軍を勝利させたとき,戦闘中長官の危険を救いまたは敵の長官を生け捕りあるいは敵の軍旗を奪取したとき,その他抜群の武功があったとき,である。個人および軍隊・艦艇のいずれにも授けることができた。感状を授与したときは,授与者はこれを部下一般に公示し,陸軍大臣または海軍大臣は天皇に上奏した。感状を授与されることは軍人最高の名誉とされた。なお後には感状の文章は〈全軍に布告す〉と結ばれるのが一般的となったが,日露戦争のころ〈全軍布告〉を明記した例はきわめて特殊であった。
執筆者:大江 志乃夫
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武将が戦功のあった者に対して与える賞状。『日葡(にっぽ)辞書』では、canjǒは人を褒美する文、すなわち、ある人を称賛する書状と訳している。南北朝時代以後に多く、御教書(みぎょうしょ)、御内書(ごないしょ)、判物(はんもつ)、朱印状(しゅいんじょう)、黒印状(こくいんじょう)などの形式をとった。形状は一定せず、折紙(おりがみ)、竪紙(たてがみ)もあるが、切紙(きりがみ)の場合が比較的多い。小形の切紙を用いたりしたのは、戦闘の間に、ときには陣中で授与されたりしたことによるためと考えられている。文書は具体的な戦功を記して「比類なきの働き、神妙の至り」と賞したのち、「弥(いよいよ)忠節を励むべし」といったことばで結んでいる。具体例をあげると、比較的早い時期のものとして1333年(元弘3・正慶2)の阿曽沼治時(あそぬまはるとき)感状(折紙)がある。これは、関東方の大将阿曽沼治時が河内千早(かわちちはや)城の楠木(くすのき)氏を攻めたとき、参戦した和泉(いずみ)国御家人(ごけにん)和田(にぎた)中次に与えたものであるが、それには「野臥(のぶせり)合戦を致し、頸(くび)を取り了(おわん)ぬ、尤(もっと)も神妙候」と、敵の首をとった戦功を賞している。室町時代の例としては1429年(永享1)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)の感状がある。これは小野崎越前(えちぜん)三郎にあてたものであるが、三郎の父が合戦で討ち死にしたことを賞したもので、御感(ぎょかん)の御教書とよばれている。
[黒田弘子]
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