中国、清(しん)末、戊戌の年(1898)を頂点に行われた康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)、譚嗣同(たんしどう)ら士大夫の改良主義的変革運動。変法自強運動ともいう。当時中国では、農民蜂起(ほうき)と資本主義列強の侵略によって、清朝の支配体制が大きく動揺し、これを立て直そうとする試みはアヘン戦争期以降行われてきたが、いずれも失敗に終わった。変法運動はその最後のものであり、清仏(1884~85)、日清(1894~95)の二戦争で洋務運動の欠陥が暴露されて以後、急速に高まった。
変法運動の目標は、若い光緒(こうしょ)帝を擁立し、その下で立憲制、議会制を採用し、日本の明治維新やロシアのピョートル大帝の新政を模範として、近代的国家を樹立することであった。中心人物である康有為らの上奏文にみえる改革の内容(すべてが実施されたわけではない)は、政体変革のほか、軍備強化と徴兵制、産業・交通振興などの「富国強兵」策、教育改革と人材登用、国教としての孔子教樹立などであり、しかもこれらを洋務運動のように各地方でばらばらに行うのでなく、全国規模で統一した方針の下で実施することであった。この一連の改革を推進した主体は、梁啓超、譚嗣同ら士大夫が各地方で設立した学会であり、彼らは新聞・雑誌を発行し、纏足(てんそく)廃止などの啓蒙(けいもう)活動をも行い、人々を目覚めさせた。しかし彼らは官僚、士大夫層の少数派にすぎず、しかも民衆の支持をほとんど得られなかったので運動はしだいに孤立し、西太后一派の戊戌政変クーデターによりわずか100日ほどで失敗した。彼らの設立した学会はその後、立憲運動のなかで諮議局(地方議会)へと成長したが、変法運動の挫折(ざせつ)により、士大夫の改良主義的変革運動はほぼ破産したといってよい。
[伊東昭雄]
『小野川秀美著『清末政治思想研究』(1969・みすず書房)』▽『西順蔵編『原典中国近代思想史2』(1977・岩波書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加