改訂新版 世界大百科事典 「戚継光」の意味・わかりやすい解説
戚継光 (せきけいこう)
Qī Jì guāng
生没年:?-1587
中国,明の武将。北虜南倭の防御に活躍した。登州衛(山東省蓬萊県)の人。字は元敬,諡(おくりな)は武毅。1552年(嘉靖31)以後のいわゆる後期倭寇の大侵攻に当たり,総兵官胡宗憲のもとにあって,その鎮定に努力した。57年には倭寇の大頭目王直を捕らえたのをはじめ,63年の平海衛の戦でも倭寇の主力を撃滅し,兪大猷とともに偉功をたてた。67年(隆慶1)海禁令が解かれ,倭寇が下火になると,北辺防衛にうつされ,総兵官として薊州,永平,山海関等においてアルタン・ハーン,ついでトモン・ハーンらのモンゴル軍の侵攻を撃退し,北辺の安全を保持した。しかし彼を支持した宰相張居正がなくなると弾劾をうけ,晩年不遇のうちに没した。彼は当時軍政が廃弛し,辺防軍は用をなさなかったので,みずから兵士を召募・訓練し,兵器の充実に努めたので,その軍は戚家軍と呼ばれ勇名をはせた。その経験に基づいて《紀効新書》《練兵実紀》等の兵書を著している。
執筆者:谷口 規矩雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報