長着の袖で丈の長いもの。または、その袖のついた長着のことをいい、未婚女性の盛装として用いられる。袖付けを短くして、その下の振り八つ口をあける。その部分が振れ動くのでつけられた名称である。江戸時代には脇(わき)あけともいった。
振袖着用は、古くは鎌倉時代の絵巻物『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』にみられるが、江戸時代になってその名が一般化した。男女児と若い女性が着たもので、とくに子供は体熱を発散させるために振りをあけた。女性は18歳になると、振りを縫いふさいで留袖にしていた。しかし文化年間(1804~1818)になると、帯幅が1尺5分(鯨尺なので約40センチメートル)と広くなり、ふさいでいると帯を締めるのに差し支えるので、18歳を過ぎても振りのある袖が用いられるようになった。そのため、脇あけの振袖、脇ふさぎの留袖という本来の意味を失って、袖丈の長いものを振袖、短いものを留袖というようになり、さらに留袖は既婚者の礼装をさしていうようになった。
近世初期の袖幅は20センチメートル内外と狭く、丈は曲尺(かねじゃく)の1尺5寸(約45センチメートル)、両袖用尺は6尺となり六尺袖ともよばれ、これを大振袖ともいった。袂(たもと)の丸みは20センチメートルぐらいに大きくそいだので、そぎ袖といわれ、形が似ているところから、長刀(なぎなた)袖、鶯(うぐいす)袖などの名もつけられた。袖丈はしだいに長くなり、元禄(げんろく)年間(1688~1704)の裁縫書では、袖丈73センチメートル内外、享和(きょうわ)年間(1801~1804)には95~102センチメートル、嘉永(かえい)年間(1848~1854)には106センチメートルが一般の袖丈となった。この寸法がほぼ定着して、明治・大正・昭和に至った。現在は袖丈105センチメートルを大振袖、95センチメートルを中振袖、85センチメートルぐらいのものを小振袖という。
黒振袖は五つ紋をつけて花嫁衣装に用い、色物または白地の振袖は婚礼のお色直しや、未婚女性の盛装として用いる。これには五つ紋のほか、三つ紋、一つ紋をつけることも、紋を略すこともある。生地(きじ)は縮緬(ちりめん)や紋綸子(もんりんず)で、絵羽模様を染め、刺しゅう、摺箔(すりはく)、絞りなどを施した華麗なものが多い。少女用には友禅模様も用いる。
[岡野和子]
振りのある袖(脇明き),または長い袖丈の着物をいう。初期の小袖の付詰袖(つけづめそで)に対し,男女児および元服前の女子が用いた袖で,寛文(1661-73)のころの袖丈1尺5寸のものを左右前後合わせて六尺袖(大振袖)と称した。貞享(1684-88)のころには2尺,宝暦(1751-64)には3尺近くにいたる。帯幅が広くなるに従い,18歳以上の女性も振りのある袖を用いたので振袖は袖丈の長い着物を意味するようになる。明治以降,女児や若い女性の礼装,晴着に用いられ,礼装は模様物となる。戦前は黒地五つ紋付模様物振袖が花嫁衣装であった。現在では未婚女性の礼装として袖丈1m内外の本振袖(大振袖),約90cmの中振袖がある。七五三祝着は男女児ともに振袖が正式とされている。
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執筆者:山下 悦子
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…1683年(天和3)幕府は女の錦紗(きんしや),縫い,惣鹿子(そうかのこ)(総絞)を禁じたが,1689年(元禄2)に銀250目,1721年(享保6)に銀300目までの縫いの注文仕立てを認めたことで明らかなように禁令は風俗の美化をおさえきれなくなった。 振袖はもと長さに関係なく,〈わきあけ(八つ口)〉の袖をいい,汗の発散と動きやすさのため童児用であったが,江戸時代に装飾化して若い娘のものとなり,長さを増しはじめた。寛文年間(1661‐73)には1尺5寸を大振袖といったが,やがて2尺(貞享),2尺5寸(享保),3尺近く(寛延)と地にたれるばかりになった。…
※「振袖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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