日本在来の衣服で、近年来、日本の民族衣装とよばれているものの総称である。明治に西洋の衣服が輸入され、これを洋服とよんだ。これに対して従来の日本の衣服を和服とよぶようになった。一般に和服といえば「着物」という印象で、和服=着物の同義語として用いられている。和服は日本で発達した衣服で、広義には日本で古くから用いられてきた様式の衣服すべてをさすが、狭義には長着、羽織、帯、長襦袢(じゅばん)、肌襦袢、裾除(すそよ)け、コート、男子にはさらに袴(はかま)、褌(ふんどし)を含み、ほかに和装具として足袋、履き物などが加わる。
[藤本やす]
長着は袖、身頃(みごろ)、衽(おくみ)、衿、共衿とで成り立つ。女物袷長着の裏は胴裏と裾回しで成り立ち、袖口と裾にふきを出す。男物は通し裏で袖口布には別布を用いる。羽織は袖、身頃、衿、襠(まち)、乳(ち)とで成り立つ。前身頃はその幅から袖口布、襠の分を裁ち落とす。衿は並幅をそのまま用い、衿幅の寸法に折り畳んでつける。袷(あわせ)羽織は裾を折り返し裾山を輪とする。胴裏には柄物(がらもの)を多く用いる。男物羽織は額裏といって山水画、初夢の吉祥模様などを染め出したものを用いる。
[藤本やす]
長襦袢は袖、身頃、衿とからなり、衿は裾までつける。下着に凝ったものを用いるという美意識から柄、色のはでなものが選ばれる。男物は、後ろ身頃に額裏同様の絵画的模様を染め出したものを用い、背に縫い目をつけない。袷の袖は男女ともに無双袖にする。肌襦袢は吸湿性、保温性のある晒(さらし)を用い、丈は腰まで。衿幅を狭く、袖幅も狭くし、袖口から見えないようにする。袖には袖下あき、脇(わき)に身八つ口、馬乗(うまのり)をつける。裾除けは下半身を覆う下着で、足さばきをよくする布地を選ぶ。半襦袢は長襦袢の上半身に相当し、半襦袢と裾除けとで長襦袢のかわりとして着用する。
[藤本やす]
帯はとくに女子の場合、和服に欠くことのできないものである。普段着はもちろんのことであるが、結婚式の披露宴、成人式、観劇、茶の湯、舞踊などで、黒留袖(とめそで)、色留袖、振袖、訪問着などの盛装に、美を添える唯一のものである。帯は長着よりも一段と価値の高いものが和装の効果をあげるといわれる。配色効果のよいものを着用目的によって、丸帯、袋帯、名古屋帯、袋名古屋帯などから選ぶ。浴衣(ゆかた)には半幅帯を用いる。男子は角帯か兵児(へこ)帯のいずれかを選んで用いる。礼装には角帯を用いる。子供は女児に限って3歳、7歳、京都などでは13歳の祝いに帯を締める。正式には丸帯の子供用を用いるが、近年、着付が簡単な付け帯も多く用いられている。
[藤本やす]
コートには塵(ちり)よけ用、防寒用、防雨用、さらにおしゃれ用の各種がある。男子用コートは角袖コートが用いられている。明治時代から第二次世界大戦前までは、二重回し(とんび)が一般に用いられていた。俳人、茶人、老年の人のなかには道行コートを着用している人もある。女物コートは各種にわたって着用されている。ことに近年、若い人は羽織を着ることなく、晴れ着にコート、街着にコートと、羽織にかわってコートが着用されるようになっている。女子は正装・礼装いずれの場合も、長着に帯の帯付きを本体としていることから、ふだん和服で過ごしていない人には、コートが防塵(ぼうじん)用、防寒用として身近になってきているからである。近年の道行コートはカラフルになり、柄物も多く、また単道行半コートの着用者も増え、布地も紗(しゃ)、羅(ら)などが用いられている。夏の雨ゴートにも紗、羅の布地が用いられるようになっている。
[藤本やす]
袴は男子の礼装、正装には羽織とともに欠くことのできないもので襠有袴(馬乗袴)を用いる。女子は帯付きでないとき袴を用いたが、これは主として学校へ通う和服姿の生徒であった。また学校で行われる式典に用いられていたが、第二次世界大戦後はこの姿はみられなくなった。しかし近年卒業式に袴姿が復活してきている。
[藤本やす]
現在の着物の形態は、室町時代の小袖帯の姿にその源流をみる。小袖は、平安時代に着用された衣服の大袖に対して、小さい袖という意味でよばれた。この小袖は、平安時代中ごろより上層階級の大袖衣の下に肌着として用いられた筒袖衣であったが、年代を経るにしたがって、袖下に曲線の丸味がつき、さらに袖丈が長くなり、現在の元禄(げんろく)袖ほどの袖丈になってきた。下着として発生した小袖の色は白であった。上層階級の公家(くげ)、武家では、大袖衣の重ね着に袴を着用した二部形式の衣服の上に一部式の衣服を着用したのである。すなわち当時は二部、一部形式の衣服を併用した姿であった。一般の庶民、子供は筒袖の小袖形式の丈の短い一部式の衣服を表着として着用し、その上に丈の短い褶(うわも)(上裳)のようなものを腰につけているか、または細い紐(ひも)ようのものを締めている。この庶民の衣服には模様がついている。
戦乱の室町時代には物資も乏しく、上層階級においては大袖衣の表着を省いていく傾向にあって、肌着として用いられていた小袖が表着化していった。その形態は対丈で、幅の狭い細い帯を腰に締めるようになった小袖帯という着流しの姿である。小袖の表着化に伴い織り柄、染め柄をつけた小袖が現れ、意匠が凝ってくる。織り柄は奈良、平安の時代を経て用いられてきた綾(あや)、二重(ふたえ)織物、錦(にしき)織などの技法から織り柄にその精緻(せいち)を応用し、さらに当時南蛮文化が輸入され、この影響を受けて従来の模様とは異なった小袖向きのものが織られ、着用されるようになった。後世への影響をもたらした模様構成が現れたのはこのころである。小袖の半身ずつ異なった織紋様、色を違えたものの片身替(がわり)、また市松風に織り柄、色を段に組み合わせた段替わりなどが用いられた。これはいまも能衣裳にみることができる。
染めは、縫い締め絞りによる染め分けと、墨の描き絵とを用いた辻が花染めが用いられた。これは桃山から江戸時代の初めまで、小袖、胴服などに用いられ、その後姿を消した。しかし第二次世界大戦後、短い期間で姿を消して幻の染めといわれた辻が花染めの復原的創作が、久保田一竹(くぼたいっちく)(1917―2003)の努力によって世に現れた。室町・桃山時代の辻が花染めとは趣(おもむき)を異にして、個性的で華やかな「一竹辻が花」が今日の着物染色に彩りを添えている。桃山時代にはさらに摺箔(すりはく)と繍(ぬい)(刺しゅう)が小袖を彩り、江戸時代に入るとこれに絞りが加わる。区画技法の後を受けて区画の中に繍、絞り(匹田(ひった)=鹿の子(かのこ))をし、さらに空白を摺箔によって布地を埋め尽くした豪華な地無しといわれる小袖が用いられるようになった。しかし明暦(めいれき)3年(1657)の大火により江戸はことごとく焼け尽くされ、その後を受けて一時に多数の衣服を新調することは不可能であった。寛文(かんぶん)(1661~73)の初め、衣装に精緻(せいち)な技巧を施す余裕はなかった。そのため細かい模様は影を潜めることになり、ここにいままでにない特徴のある小袖が誕生した。小袖の表(おもて)全面を一模様とし、全体の七分に模様を置き、残りの三分は空白の構成であった。模様は右肩上方にポイントを置いて左肩から右裾へ、そして三分の空白は背面と左裾の方へと配置した。模様には繍箔(ぬいはく)、鹿の子絞りが用いられた。これを寛文模様=寛文小袖という。現在の着物の模様はこの模様構成の影響を受けている。当時は金糸の使用禁止に伴い、色糸刺しゅうが行れるようになっていた。貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)(1684~1704)には友禅染めに繍、絞りを用いての華やかな小袖模様へと展開されていった。
平和な世を謳歌(おうか)し、ぜいたくな生活に凝り、度の過ぎた華美な奢(おご)りは禁令などにより押さえられ、奢りは衣服の裏へ、下着へと移っていった。また小袖の模様は全体から腰高模様、裾模様、ふき模様、そして裏模様へと移行していった。現在の裾模様、総模様、付下(つけさ)げなどの絵羽付けによる模様は、江戸時代より引き継がれているものである。また裃(かみしも)に用いられていた小紋は、今日、江戸小紋と名づけられ女物の着物に引き継がれ、用いられている。
男子の小袖は、縞物か無地が主として用いられ、布地は羽二重、竜紋(りゅうもん)、紬、上田縞、糸織縞(いとおりじま)、紬縞、唐桟(とうざん)などがあった。礼服には定紋をつける。裃を武士が着用するときはかならず熨斗目(のしめ)小袖を着用することになっている。今日熨斗目模様は、七五三の祝いのとき、5歳の男児の羽織袴姿に、また生後1か月の宮参りの男児の懸け着物に用いられている。熨斗目は男子のみが着用した。
小袖は表着化したころは対丈であったが、しだいに身丈が長くなり裾を引くようになった。江戸中期には現在の着物の形と変わらなくなってきている。江戸時代は太平の世が続いたので華美に、またしゃれたものへと進展し、小袖も布地によって区別されるようになった。麻で仕立てたものを帷子(かたびら)、木綿で仕立てたものを布子(ぬのこ)、絹織物で仕立てたものを小袖とよぶようになり、夏は単衣(ひとえ)、春秋は袷、冬は綿入れ、季節から季節に移り変わるときは合着と、それぞれに適応するものを着衣するように心がけた。これを更衣(ころもがえ)といい、第二次大戦前までこの慣習が受け継がれてきていた。また着装の仕方によって被衣(かつぎ)、小袖、打掛、腰巻と呼び名がつけられている。身丈の長くなった小袖は、屋内では裾を引き、外出では歩きやすく身丈を短く引き上げて、しごきまたは抱え帯を締めて歩行に便利にした。これを「からげる」といい、現在でも雨のときにはこの技法を用いて短くし、雨にぬれないようにする。やがてこのからげが現在のおはしょりの形をとるようになった。幕末より明治に至って、外出時、屋内ともにおはしょりをするようになって、屋内で裾を引く「お引き摺り」はなくなった。
小袖に締める帯は、室町、桃山、江戸初期には幅の狭い絎帯(くけおび)が用いられ、江戸中期ころには幅もやや広く丈も長くなり、吉弥(きちや)結び、水木(みずき)結びなどの帯結びができた。小袖の丈が長くなったのと並行して帯幅も広くなり、江戸後期には現在の帯幅と同様になり、太鼓結びなどが用いられ、帯揚、帯留なども使用するようになる。帯は本来丸帯形式のものであるが、江戸後期に腹合(はらあわせ)帯(昼夜帯、鯨(くじら)帯)が用いられ、明治、大正、昭和初期まで用いられた。大正中ごろに名古屋帯が考案され、腹合帯にかわって用いられるようになった。そのころすでに袋帯が織られていたが、第二次大戦後普及し、昨今は丸帯にかわって用いられる傾向にある。しかし、重厚さ、格ともに丸帯が勝っている。夏には単帯が主として用いられていたが、近年、袋名古屋帯がこれにかわって用いられる傾向にある。男子の角帯は、絎(く)け仕立てのものがもっぱら用いられていたが、現在は袋織の角帯がこれにかわって用いられている。明治には、兵児(へこ)帯が行灯(あんどん)袴(襠無袴)、着流しの普段用に用いられていた。
[藤本やす]
和服地は表着、下着、外被、帯など、それぞれ男女、年齢、季節、格、用途によって色、柄、布地を異にしている。和服は形が一定しているから、着る人の個性、季節感などは布地、色、柄の選び方によって表現することになる。日本独特の気候・風土、気質、伝統的技術の積み重ねによる多種多様の和服地があるが、年々色づかい、柄ゆきに変化がみられる。年によって流行もあるが、それにはあまり影響されないほうが賢明であろう。和服の寿命は長い。色、柄は飽きのこないもので布地のよいものを選ぶことである。
絹織物には夏用の長着、羽織、帯に絽(ろ)、紗(しゃ)を用い、単、袷用には縮緬(ちりめん)、綸子(りんず)、綸子縮緬、御召(おめし)、羽二重(はぶたえ)、紬(つむぎ)など。男物袷長着の袖口布に黒八丈、帯地には錦(にしき)織、唐織、繻珍(しゅちん)、博多(はかた)、塩瀬、羽二重、紬などがある。袴には仙台平、山辺里平、五泉平、博多平紬などが用いられる。コートには紗、羅(ら)、縮緬、変わり紋織、朱子、紋朱子、紬などを用いる。麻織物は上布といい、小千谷縮(おぢやちぢみ)(越後(えちご)縮、越後上布)、八重山(やえやま)上布(薩摩(さつま)上布)、能登(のと)上布などがある。綿織物には縞(しま)木綿、絣(かすり)木綿、浴衣地(岡木綿)、綿縮などがある。肌着用としては晒木綿、裏布として金巾(かなきん)、新モス、男物の袖口布に綿黒八などがある。毛織物にはモスリン、ウール、ネルなど。近年は化学繊維の織物にも高度のものが出ている。織組織は綿、毛、絹の織物と変わりなく、また染めも絹織物と変わりないようなものができており、素材だけが異なっている。
染めには先染めと後(あと)染めがあるが、礼装、正装の帯は先染めの織りのものを用い、おしゃれ用、趣味用として後染めのものを用いる。長着に用いる布地は季節、格、性別、用途などにより、それぞれに適応するものを選ぶが、礼装・正装には後染めのものを用いる。色は無地物、柄物などがある。夏は藍(あい)染めによる藍の色がとくに浴衣(ゆかた)に好まれ、春は淡い色、秋冬は色の濃いものなど、季節によって、流行色によって選んで用いる。柄は、織り柄には縞、絣(かすり)、格子のほか、紋織による多種多様のものができる。地紋として織られたものは、無地染めに、小紋柄などの柄集め、絵羽付けによる模様物などに染め、用途にあわせて用いる。
[藤本やす]
長着、羽織、長襦袢は、性別で男物・女物、年齢別には子供物・大人物とがあり、季節別には夏を中心に着る単(ひとえ)仕立て、冬を中心に着る袷(あわせ)仕立てがある。子供物は、乳幼児から児童と、その成長にあわせて寸法、形態が少々異なる。今日は一つ身、三つ身、四つ身とが用いられており、それぞれ裁ち方、縫い方に異なる点がある。また子供は年間に10センチメートル内外背が伸びる成長期にあるから、肩揚げ、腰揚げをし、成長にあわせて裄(ゆき)丈、身丈を伸ばして調節することができるように仕立てる。
成人男子用の長着は、丈は対丈(ついたけ)、袖(そで)は袂袖(たもとそで)で人形があり、衿(えり)は狭衿(せまえり)(棒衿)である。仕立て替えを考えて、腰近く帯の下の位置に内揚げをする。女子の長着は、おはしょり分を着丈より長くし、これを身丈とする。袖には元禄(げんろく)袖、長袖(袂袖)、振袖(小振袖、中振袖、大振袖)の種類がある。元禄袖は袖丈42~45センチメートル、袖口はやや小さく20センチメートル、袖の丸味は8~10センチメートルとし、スポーティーな感じの袖とされる。長袖の袖丈は年齢、用途によって異なる。若い人は53~55センチメートル、中年以上は47~49センチメートル、また若い人の晴れ着、訪問着の袖丈は60~65センチメートルとするなどである。袖付け寸法は年齢によって異なるが、帯を締める位置によっても変わる。一般に若い人は帯を高めに締めるから、浴衣(ゆかた)の袖付け寸法は22センチメートル、訪問着は20センチメートル、振袖は19センチメートルと寸法を変える。中年以上の人は23センチメートルくらいで固定し、老年の人は24、5センチメートルくらいとする。衿も浴衣の場合はばち衿(末広衿)とし、薄物、絹布、ウールなどは袷、単ともに広衿とする。茶席、舞踊などの稽古(けいこ)用に着用する長着は裄丈を長めに、また身幅も広くして動作がしやすく、前がはだけないように仕立てる。着用目的に従って細やかな気配りを必要とし、心遣いによって着やすい着物にすることができる。
和服はいずれも、長方形の布を縫合した緩やかな直線的衣服である。着装することによって曲線的となり、歩行、動作に伴い動的美を表現する。体型には肥満体、痩身(そうしん)、猫背、反り身などがあり多様であるが、着物は体を包む風呂敷(ふろしき)のようなものであるともいわれるように、体格の差が極端でないときは同一長着で着装可能という融通性をもっている。しかし、理想的な着やすい着物は、着装する人の寸法にあわせて仕立てられていることが条件である。つまり、着丈、裄丈、腰囲(腰部の最大寸法)の採寸が必要となる。着丈は身丈を、裄丈は袖幅と肩幅の寸法を、腰囲は身幅の寸法をそれぞれ定める。着物の寸法設定は、着物独特の巻衣式筒型の特徴によるものである。
和服は長着を中心とする重ね着形式である。羽織、長襦袢などの寸法は、長着の寸法にあわせて厚みの増減、着装による寸法の変化を斟酌(しんしゃく)して定める。着装後の裄丈、袖幅、袖付け、袖口、袖丈、振(ふり)八つ口など、丈、幅をそろうように仕立て、着装したときに衿肩あき、くりこしがきれいにそろって重なるようにすることがたいせつである。
[藤本やす]
和服は直線裁ちであるので、洗い張り、仕立て直しを繰り返して行うことができる。汚れたり色があせたもの、また年齢にあわなくなったものなどは、染め直しをして再生させることができる。先染(さきぞめ)織物などで、染め直しができないものは半纏(はんてん)、ふとんなどへと利用することもできる。こうして着物の寿命を保たせ、親から子へ、子から孫へと着用の可能性のある限り受け継いでいくことも、その心遣い一つでできるという特長をもっている。
なお、和服は、体型をカバーし美化する特長をもっている。また巻衣式筒型であるから、とくに下半身の保温に適しており、冷えを防ぐ。和服は帯を簡略化すれば着脱が便利であり、病人にも適応し看護もしやすい。
[藤本やす]
不祝儀には黒、五つ紋付を着る。関東では羽二重(はぶたえ)、関西では縮緬(ちりめん)と、慣習によって用いる布地が異なっている。第二次大戦前は白衿紋付といい、下着に白を用い、二枚重ね一つ衿を着用していたが、戦後は二枚重ねは「不幸が二度重なる」につながるとして嫌われるようになり、1枚を着用する方向へと変化している。帯、帯揚、帯締すべて黒を用いる。近親者の場合、帯揚、帯締は白を用いる。男子は祝儀、不祝儀いずれも羽織、袴(襠有袴)を着用する。
礼装・正装には紋をつける。女性用の黒留袖、色留袖、振袖などが場合に応じて用いられるが、礼装には染抜き紋付で、正装は五つ紋、略して三つ紋をつける。色無地、訪問着などは一つ紋で縫紋(ぬいもん)をつける。男子用は長着、羽織ともに、染抜き五つ紋付を正式とし、略すことはない。
[藤本やす]
和服は直線的で形態が一定しているため、色、柄、着用者の寸法、好みなどにあわせた、洋服のような多種多様な既製品化は望めない。現在既製品として定着していると思われるものは、寝巻用の浴衣、コート類、綿入れの丹前(たんぜん)、半纏(はんてん)などである。ほかにウールの単長着、羽織、喪服、長襦袢などもあるが、ほとんどがミシン仕立てになっている。本来和服は、仕立て替え、染め直しなど、布地の寿命のある限り更生利用することができるものであるから、手縫いによって仕立てられる。
[藤本やす]
『河鰭実英著『きもの文化史』(1966・鹿島研究所出版会)』▽『鯨岡阿美子編『きもの――選び方ときこなし』(1967・文芸春秋)』▽『日野西資孝編『日本の美術26・服飾』(1968年・至文堂)』▽『神谷栄子編『日本の美術67・小袖』(1971・至文堂)』
洋服に対し,日本で古くから用いられている衣服をいう。着物と総称することもあるが着物は狭義には長着を指し,和服といえば帯や羽織なども含まれる。その基本となる着物は一部式の寛衣で長い袖丈と踵(かかと)までの着丈が特徴である。普段着から礼装まで同形で帯と組み合わせることによって成り立つ。老幼男女の色柄,大小の差はあるが,袖,身ごろ,衿,衽(おくみ)で構成される。下着も丈の長短,幅の広狭はあるがほぼ同形である。このため重ね着がしやすく,着脱に便利な羽織のほか袖無しなどもある。打ち合わせて着るので紐を必要とするが,着るときには老幼男女とも同じで左を上に打ち合わせる。男女子どものおおまかな区別はあるが,普通体型では標準寸法を用い,着方や揚げで調節するのでフリーサイズに近い。仕立ては袷(あわせ)と単(ひとえ)仕立てがあり,その裁ち方は肩山,袖山を輪とし,定尺(ていじやく)の用布を直線に裁ち無駄布を出さない。これをほとんど直線に縫い,縫い方は並縫い(ぐし縫い)とくけ縫いを主とする。縫い目は割らずにきせをかけて押しをして仕上げるため,仕立て上がってからある程度の期間をおいて着用したほうがよい。たたむと平らになり収納しやすいのも特徴である。余り分は揚げ,縫いしろとするのでほどいて接(は)ぎあわせると元の状態にもどる。したがって洗張り,染直し,寸法直しがきき着物から羽織やコート,長じゅばんなどへ変えることも可能で帯も更生できるものもある。これをくりまわしといい,くふうと手間をかけて最後まで布を使いきる習慣があった。男の着物は対丈(ついたけ)といって着丈と身丈を同寸に仕立てて内揚をするが,子ども物は肩と腰とに外揚をして成長にあわせて調節する。女物は着丈に揚分を加えて仕立て,着るときにたくしあげるが,これをおはしょりという。
男物は幅10cmほどの角帯を締めるのが一般的だが,袖付けが長く形態,着装ともにいくらか小袖様式が残っている。女帯はふつう幅30.5cmのものを用い,長さによってお太鼓,または二重太鼓に結ぶので帯枕,帯揚,帯締などを必要とする。着装の基本は夏冬とおして老幼男女ともに肌じゅばん(女子は裾除(すそよけ)をつける),長じゅばん,着物の3枚でその上に帯を締める。晩秋から春先まではコート,羽織を用いるが,女物雨コートには一部式と二部式がある。ほかに防寒用のちゃんちゃんこ,胴着,羽織下,はんてん,丹前などがある。女物正装は帯付きといって羽織を着ず,男物は羽織袴が正装の条件である。着物は10月から5月までは袷とし,6月9月は単,7月8月には夏物の単を着るが,帯や羽織もほぼ同様である。
和服の着装の特徴として格付け,取り合せの調和がある。格付けとは柄のつけ方,織方などによって礼装,準礼装,社交着,街着,家庭着と分類されていることをいい,場所や目的にあわせてその中から着物を選び,帯や小物,長じゅばんなどもこれに準ずる一定のきまりをいう。調和とは着物と帯の組合せを主体にして,格調,色柄,素材を調和させることで日本特有の優れた美的感覚のあらわれでもある。この調和は袷における裾回し,小物,履物までに及び,総合の美を発揮する。しかし近年は洋服の影響もあって単純,淡彩な好みや反対に舞台衣装のような意表をつく着物の傾向もあらわれた。和服のほとんどは絹でほかに木綿,ウール,交織,化合繊や夏物には麻がある。なかでも絹を素材にした織物は,日本の風土気候を背景にさまざまな地風(じふう)を生み出した。加えて染め,織の文様の多様さ,きめこまやかな色彩の豊富さは,完成された形と仕立て方とともに世界に比類がなく文化水準の高さをも示す。ただし,現代においては洋服と比較すると活動に不便なこと,着装や手入れに手間がかかること,和装に関する知識が失われ好みが変化したことなどによって,和服を日常着として用いることが少なくなり,礼装化しつつある。
執筆者:山下 悦子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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