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小袖 こそで

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小袖
こそで

広袖の和服に対して,筒袖で袖口の小さい垂領 (たりくび) の和服をいう。今日のきものの原形。文献のうえでは養老2 (718) 年の『養老律令』にみえているのが最初で,礼服の下衣として用いられた。

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デジタル大辞泉の解説

こ‐そで【小袖】

現在の和服のもととなった、袖口の小さく縫いつまっている衣服。平安末期ごろは貴族が装束の下に着る白絹の下着であったが、鎌倉時代になると一般に袖に丸みをつけて数枚を重ね着しはじめ、しだいに上着の性格を帯びていき、江戸時代には階層・男女を問わず広く用いられた。女性の間では室町時代以降、小袖袴(はかま)姿としての袴も除かれて着流しとなり、文様も華麗で、重ね小袖の上に羽織る打ち掛けの小袖なども生まれた。
大宝の衣服令で定められた、礼服の大袖の下に着る筒袖・盤領(まるえり)の衣服。
絹の綿入れ。→布子(ぬのこ)

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百科事典マイペディアの解説

小袖【こそで】

大袖あるいは広袖の着物に対して袖口が縫い詰まった着物のこと。初めは筒袖で,平服として,また大袖の下着として用いられたが,鎌倉・室町ごろから表着とされ,袂(たもと)のふくらみのついた現在の着物のような形となり,衣服の中心となった。
→関連項目着物熨斗目有職文様

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世界大百科事典 第2版の解説

こそで【小袖】

大袖に対する言葉で,一般には広口の袖の表着(うわぎ)の下に用いた内着をさすが,広義には,中国から輸入された襟のつまった服装に対し,襟をかき合わせる固有の服装をすべて小袖系ということができる。狭義には,のちに表着となり,袴を取り去って着流しとなり,〈きもの〉に発展した内着の一種をいう。
【発生と変遷】
 日本の3世紀以降発達した農業社会では,庶民の服装は木綿(ゆう)(山野に自生する植物の繊維で種類は一定しない)で織った単純な上衣と,労働の必要からその上にはいたズボン型の袴との組合せであったが,そのときの,袖の細い,丈の短い,襟を胸の中央でかき合わせる上衣が,後世の小袖の原型である。

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大辞林 第三版の解説

こそで【小袖】

袖口が狭く、垂領たりくびで前を引き違えて着る衣服。現在の長着の原形。平安時代には、貴族の装束の内衣であり、庶民は日常着として用いた。次第に貴族の服装が簡略化されるにつれて上衣うわぎとなり、男女ともに広く着用するようになった。室町時代にさらに洗練されて、打掛うちかけ・被衣かつぎなどの豪華な装飾用の小袖を生んだ。近世になって袂たもとが長くなり、身丈も長くなって近世後期にはほぼ現在の長着の形となった。
礼服の大袖の下に重ねた筒袖・盤領まるえりの衣服。
絹の綿入れ。 → 布子ぬのこ

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小袖
こそで

和服の一種。小袖ということばがもっとも古く用いられているのは、大宝(たいほう)の衣服令(りょう)に貴顕最高の礼装であった大袖(袖口の広くあいた表着)の下に着た、盤領(あげくび)の袖の細い衣のことである。これは明らかに下着であるが、形は当時の朝服の袍(ほう)と似たようなものであり、また『延喜式(えんぎしき)』の左右近衛式に正月7日青馬(白馬(あおうま))の口取りの料として「紫の小袖」があり、身分の低い官人が表着に用いたこともあったようである。
 平安時代になって貴族階級の間に、男女とも広袖の厚い重ね着の装束が一般に行われるようになると、その最下層の単(ひとえ)の下にさらに筒袖型の肌着が用いられるようになり、これが広袖の上層衣に対して小袖と称された(礼服の小袖とは名称は同じだが直接関係はない)。一方、下級者や庶民の間では、袖のない手なしという短衣や短い筒袖の小袖の上に、男は短い袴(はかま)をはいたり、女子は褶(しびら)という前掛けのようなものをつけて上衣として用いていた。この二つの小袖が後世の「小袖」、ひいては今日の着物の祖型ともいうべきもので、初めはともに素朴な筒袖で、貴族の用いたものは完全な下着であるから白の平絹か綾(あや)、庶民のものは麻が主で袖は短く丈もすねが出るようなものであったが、上衣であるだけに、少しずつ絞りや摺(す)り文などで簡単な模様のつけられることもあったようである。
 こうした筒袖の下側に少し丸みがついて、鯉口(こいぐち)になり、やがて薙袖(なぎそで)になっていくのが鎌倉時代ごろで(今日現存のもっとも古い小袖である中尊寺金色堂の藤原基衡(もとひら)の棺内から発見された小袖は、袖が三角になった燧(ひうち)袖である)、このころになると、貴族の服装にもようやく簡略化が始まり、女性の間では小袖に袴をつけただけの小袖袴や、袿(うちき)を羽織っただけの小袖袿などが行われ、小袖がしだいに上衣としての性質をもち始めてくる。そして染めや描き絵、箔(はく)、刺しゅうなどで少しずつ模様加工が行われ始めた。庶民の小袖は相変わらず麻の粗末なものであったが、それなりに藍(あい)染めの絞りなどで、上流者のものにみられるような大柄な模様が染められているのが当時の絵巻物などに散見する。ここで注目すべきことは、鎌倉時代ごろから上流階級の子供の着物に振袖(ふりそで)のみられることであり、子供は帯のかわりに付け紐(ひも)で着物の前を押さえたので、これを通すために身頃(みごろ)の八つ口(みやつ)があいていなければならない。これが「脇(わき)あけ」の小袖、つまり振りのついた小袖である。この後、子供から若年者へとしだいに振袖の着用層が広がっていき、ついには江戸時代中期以後の大振袖にまで発展していくのである。こうなると小袖ということばが振袖に対して袂(たもと)の短小なものを意味するように解される向きもあるが、これはあくまで広袖に対しての小袖であって、振袖というのは「振り付きの小袖」「振り小袖」にほかならない。江戸時代には、女性は未婚時代に長い振袖を着ていて、嫁にいくと袖の下を切り詰めた。これが「留袖(とめそで)」である。したがって今日の女性の着物はすべて振り付きの小袖ということになる。振袖の脇あけを縫い詰めたものを「詰袖(つめそで)」といい、江戸時代には男女とも少年期を過ぎると用いた。能装束では子役の着る稚児(ちご)着はかならず振りがついている。これに対して大人の役の着る小袖型の装束を、小袖物または詰袖物という。
 公家(くげ)階級の衰勢は、室町時代でその極に達し、下降する公家階級の最下層衣として残った小袖と、庶民の一般着であった小袖とが一つになり、そこに社会の上下を通じての小袖型服飾の時代が到来する。
 以上は広袖に対しての、形態を主とした総括的な意味での小袖であるが、このなかにはさらに、その構造、地質、用途などによって、いくつかの別がある。古くは裏のないものはすべて帷子(かたびら)といったが、江戸時代には麻もしくは生絹(すずし)の単衣(ひとえ)を帷子といい、これに対して袷(あわせ)仕立てで綿の入ったものが小袖、絹または木綿の単(ひとえ)ものを単衣、木綿の綿入れを布子(ぬのこ)と称した。また形は同じでも小袖の上に重ね着たものは打掛または介取(かいどり)、夏期帷子の腰にまとったものは腰巻、外出時に頭にかぶった小袖型の被(かぶ)り物を被衣(かつぎ)といった。
 以下小袖時代に入ってからのものを、その形態、模様、染織技術などについて、時代を追って概観してみる。
(1)初期の小袖(室町~桃山時代) このころの小袖の現存するものは、数のうえではごく少ないが、男性の小袖では、山形県米沢(よねざわ)市の上杉神社の謙信所用のもの、名古屋市の徳川美術館、和歌山市の紀州東照宮蔵の徳川家康所用といわれるものなどが知られている。女性のものは男性のものに比べると少なく、京都市高台寺の北政所(きたのまんどころ)所用の打掛などのほかは、能装束の縫箔(ぬいはく)として、かなりの数のものが残されている。
 形態のうえの特徴としては、男女ともに身幅が広く、これに対して袖幅が非常に狭い。身丈は対丈(ついたけ)で一定しないが、だいたいの標準的な寸法を能の縫箔によってみると、身幅1尺2寸(40.4センチメートル)袖幅7寸(21.2センチメートル)、襟幅5寸(15センチメートル)で、袖幅と身幅の比が1対1.7~1.8ぐらいである。男物の小袖には、織物で綾地に文様を織り出し、絣(かすり)で熨斗目(のしめ)風に色違いに織り出したものや小紋などもあるが、女性のものはだいたい、練緯(ねりぬき)地に刺しゅう、箔などで模様を肩裾(すそ)、片身替り、段などで表した縫箔や、絞り、描き絵、刺しゅう、箔などを用いた辻が花(つじがはな)染めなどが多い。
(2)江戸前期の小袖(慶長(けいちょう)~寛文(かんぶん)) この時代の小袖の大きな特徴の一つは、小袖の生地(きじ)に用いられた織物の多様化であろう。室町時代から輸入された名物裂(めいぶつぎれ)系統の織物が、桃山末から江戸前期にかけて、しだいに国産化が進んできたことによって、緞子(どんす)、紗綾(さや)、縮緬(ちりめん)、ビロード、甲斐絹(かいき)などがつくられ、木綿も初期の希少価値をもった高級品から、麻と同列なものとして広く用いられ始めてくる。ことに繻子(しゅす)組織による綸子(りんず)が現れたことで、それまで辻が花や縫箔の小袖にもっぱら用いられていた練緯が廃れて、綸子が小袖生地の王座を占める。爾来(じらい)、とくに武家階級の女性の小袖や打掛では江戸時代を通じて、綸子が最高のものとされ、縮緬はその下に位した。
 形のうえでは、初期の小袖の狭い袖幅と広い身幅のバランスがしだいに1対1に近づいてくるとともに、身丈も対丈ではあるが、かかとに達するくらいに長くなってくる。模様に関しては、初期の小袖にみる肩裾、段といった、区画の中に模様が詰め込まれたような構成から、小袖全体(とくに背面)を一つの画面とした絵画風な模様への動向が強まってくる。俗に寛文小袖といわれた豪放な大模様の小袖は、江戸前期を代表するものとして注目される。小袖の模様にこのような絵画的な要素が重視されてくると、そのためのデザインブックともいうべき小袖雛型(ひながた)本の刊行が寛文ごろから始まり、これは江戸末期まで続いている。
 染織技術としては、依然、絞りと刺しゅうが主流をなしており、とくに絞りは大柄な模様や生地の染め分けに用いられる反面、細かい匹田(ひった)風な絞りの発達がみられ、これに伴って型紙を用いた摺(す)り匹田も現れてくる。
(3)江戸中期以後の小袖(元禄(げんろく)以後) 江戸中期に開発された友禅染は、それまでの小袖染織に革命的な発展をもたらした。米糊(のり)を用いて防染し、これに刷毛(はけ)を用いた塗り染めで彩色を加えていくことが可能になり、模様の形象や色彩を染め出すことに対する従来の浸染の負っていた制約がすべてなくなり、これによって小袖は飛躍的に華やかなものとなり、模様はますます精緻(せいち)さを増していった。
 友禅染の創始者といわれている宮崎友禅斎については、その生没年もはっきりせず、いろいろ不明な点が少なくないが、少なくとも元禄時代(1688~1704)以後に、この新しい染法の発達に関して大きな功績のあった人であることは疑いないところであろう。すなわち、こうした染法は元禄ごろから少しずつ行われていたことと思われるのであるが、今日確かに元禄時代のものといわれている小袖をみると、その多くはまだ寛文調の大模様のあとを残したもので、技術的にも絞りと刺しゅうが主体をなしている。ただしこのころまでに帯の幅がしだいに広くなってきたのにつれて、一続きの大模様が腰を境に上下に分かれる傾向を示してくる。友禅染が小袖染織にはっきり現れてくるのは、おそらく元禄を過ぎて正徳(しょうとく)から享保(きょうほう)のころ(1711~36)ではないかと思われる。そしてこのころになると、小袖の形も大きな袖、長い裾のはでやかなものになっていく。一方こうしたおおぎょうな形は、やがて江戸後期に近づくと、長い裾を引き上げた「はしょり」が行われ、長い振袖を切った留袖から、今日の着物のような、袖の丸みのとれた角袖が行われ始める。
 手描きの友禅染が絵のような模様、つまり絵模様をそのたてまえにしたことは、当然江戸時代の絵画との密接な関係が考えられる。なかでも初・中期における琳(りん)派や狩野(かのう)派、後期における四条派、丸山派などの影響は注目に値する。
 江戸中期を過ぎると、小袖の形はしだいに身幅の狭い、ほっそりとしたものになり、袖幅との比が1対1を逆に割って、袖幅のほうが広くなり、同時に小袖染織に一つの新しい傾向が現れてくる。その一つは幕府の奢侈(しゃし)禁止令に抑えられた庶民の間におこった、渋く、しゃれた、粋(いき)な趣味で、華やかな絵模様に対して、絣(かすり)、縞(しま)などが流行し始める。同時に、主として「御殿もの」といわれる武家風な小袖模様は、白上げと刺しゅうによるもので、模様は全部糊防染で、白く染めただけで色差しを加えず、これに刺しゅうで色を加えた、品のいい、しゃれたものである。そしてこれらの御殿風な小袖の模様には、今日「御所解(ごしょど)き」といわれている一つのスタイルが現れてくる。風景、花弁などを品のいい一つの型に模様化したもので、模様自体は類型化して変化に乏しいが、そのかわり題材に、詩歌、物語、名所風景などに取材した、広い主題をもったものが多い。このような類型化した美しい小袖模様に対して、江戸末期に現れたもう一つの傾向として注目されるのが、四条、円山派の写実的な花鳥などを、そのまま友禅染に移したような絵画的な小袖模様が現れたことで、この二つはそのまま明治の着物染織へ持ち越され、一つは古典的な模様として、他は明治の新しい写実的な傾向のなかへ受け継がれていった。
 明治時代になって、こうした写実的な模様は、当時ヨーロッパにおこったアール・ヌーボーの影響を取り入れて、新しい傾向の流水や蔦(つた)草などの曲線模様が流行するが、このアール・ヌーボーには、1875年にサミュエル・ビングによってパリにもたらされた日本の美術工芸品、とくに江戸時代の版画や型紙のデザインなどがその一つの要素をなしているということは興味深い。[山辺知行]

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世界大百科事典内の小袖の言及

【安土桃山時代美術】より

…工芸品としては永徳の図案によるとされる《芦穂蒔絵鞍》(東京国立博物館),《雪持柳揚羽蝶縫箔能装束》(岐阜春日神社),《白地草花模様片裾縫箔》(東京国立博物館)などの蒔絵や染色の遺品がある。特に小袖の普及は,服飾史における新しい段階を示す。これによって服装の階層性が打ち破られ,幅広い層が手軽な一枚着としての小袖をもとめるようになったことが,この時代の染織発展をうながす一つの要因となったといえよう。…

【帯】より

…日本の宮廷服飾にとり入れられた革帯や石帯(せきたい)も,中国唐代の朝服の革帯に由来する。【杉本 正年】
【日本の帯】
 日本の帯も,衣服を身体に固定する目的や,刀やその他のものを腰につるすための機能本位の紐から発達したが,後世小袖(こそで)が社会の中心的衣服となるに至って,とくに女帯にあってはそうした機能をこえて,小袖を基本とした和装美の重要な構成要素となった。その結果,帯地としての特色ある織物や意匠も生まれ,また結び方にもさまざまなくふうがこらされ,世界に類のない独特の服飾品としての発達をみた。…

【着物】より

…以下〈着物〉の語はおもに長着をさして使う。
【着物の発生と変遷】
 現在の着物をさかのぼると,小袖(こそで),(あこめ),(あお)などとなり,古代の衣服に近づいていく。着物型の衣服が成立したのは,だいたい奈良朝(8世紀)のころといわれる。…

【小袖座】より

…京都の錦小路と室町の間にあり,祇園社神人の諸座のうちの一つであった。祇園社の座の中でも,堀川材木神人,綿座,柑類の座と並び,小袖座は中世のかなり早い時期に成立していたと思われる。小袖は鎌倉中期以後,男女ともに着用する衣服として大いに普及したから,生産量も多く,別あつらえのほかに既製品もあって,値段は〈町織物〉は3貫文余,〈北野物〉は2貫5,600文であるとされている。…

【染色】より

…和泉の酢と備後の酒は醸造業の興起としてとくに注目されているが,酢は染色とも無縁ではなく,諸産業の全般的な発達に伴って染色業も大いに進歩を遂げたと考えられる。たとえば加賀の梅染,遠江の茜染,播磨の搗染(かちぞめ)(紺染)などは,全国的な流通商品とはいえないが,梅染や茜染は上級武家の小袖や帷子(かたびら)に用いられたことが文献に記され,梅染の小袖帷子は加賀の守護富樫氏から例年公方(くぼう)に進上されており,品質的にも優れていたと思われる。播磨の搗染も飾磨(しかま)で染めたのが良品で,〈飾磨の搗染〉と和歌に詠まれるほどであった。…

【袖】より

…【池田 孝江】
[和服の袖]
 袖は衣(そ)の手の意で,〈ころもで〉ともいった。有袖(ゆうしゆう)と無袖があり,有袖には袖口の形から広袖と小袖がある。漢民族の模倣であった窄袖(さくしゆう)(筒状の幅の広い袖)は国風化によって平安時代には長大なものとなり,衣冠,束帯,唐衣装などの貴族の装束類は,みな袖口のあいた広袖であった。…

【能装束】より

…創成期の能装束は舞台衣装としての完成度は低く,日常実用の衣装とあまり相違はなかったようである。中世の服装は,それ以前の公家風な襲(かさね)装束から小袖を主とした軽装に変わってくる時代であり,上流階級の女性の間にも小袖が用いられていた。武士階級の男子の服装は,直垂(ひたたれ)を主とし,素襖(すおう),肩衣(かたぎぬ),袴が使用され,また公家の略装であった狩衣(かりぎぬ)も武家が常用するようになっていた。…

【服装】より

…この時代に公家の服装の簡略化が進み,下級の者の間では下着の上着化も見られるが,上級の者は依然として広袖・重ね着形式を守る。 さて,公家にとっては肌着であるが庶民にとっては上着である筒袖の着物が小袖と呼ばれて,中世初期,封建制の成立期ごろから社会の表面に出てきた。以来,日本の衣服は広袖系と小袖系とが対立して発展していく。…

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