明治初年のころの刑法典。明治政府は1870年(明治3)大宝律(たいほうりつ)、養老律(ようろうりつ)などに学び新律綱領をつくったが、これは「綱領」の名が示すとおり法典としての体裁を備えるものではなく、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)といった前近代的な刑罰を維持していた。その後、1873年、新律綱領を基礎として改定律例が制定され、これら四つの刑罰を懲役刑に統一するとともに、条文ごとに法典としての体裁を整えた。ただ、近代ヨーロッパの刑法典と比較すると、改定律例も、華士族、僧、平民といった身分制を前提とするとともに、刑罰法規の遡及(そきゅう)適用や類推適用を認めるなど、およそ近代的な刑法典とはいえないものであった。その後、近代的な刑法典を編纂(へんさん)する必要に迫られ、1880年にフランス刑法典を範とした「旧刑法」が公布され、1882年に施行された。
[名和鐵郎]
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明治初期の刑法典。司法省を中心に編纂事業が進められ,1873年(明治6)6月13日に太政官布告として公布,7月10日施行。3巻318条からなる。新律綱領(1870年制定施行)を修正・増補したもので,新律綱領と並んで適用された。中国流の律にフランス流の刑法をとりいれている。それまでの笞・杖・徒・流を懲役に改め,刑罰を死刑と懲役刑とに体系化。新律綱領に比べて多少刑罰を軽くしたが,身分によって異なる刑罰はなお残している。82年1月1日に刑法(旧刑法)が施行されるまで効力を有した。
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…新律綱領はその結果改正され,復讐は〈臨時奏請〉して処置することとなった。〈改定律例〉(1873)は祖父母,父母に対する〈行兇人(こうきようにん)〉(敵)を殺すことは謀殺とし,斬をもって処罰することとしたが,即時に敵を討つことは無罪であり,全面的な禁止ではなかった。明治初年の敵討には1871年の加賀藩執政本多政均(まさひさ)家臣の事件に見られるように,維新期の派閥,政論の対立による暗殺とその報復という面があり,国家的公刑罰権の確立とともに,この種の紛争を打ち切るためにも,政府は復讐禁止を目ざしたのである。…
…1871年(明治4)には刑部省の小原重哉によるホンコン,シンガポールのイギリス獄制視察が行われ,翌年の〈監獄則幷図式〉に結実する。同年,それに先立ち,西洋法を参照して制定された懲役法により,笞・杖が短期自由刑たる懲役に代えられていたが,73年には先述の徒場は懲役場と改称され,同年の改定律例では,流・徒刑も刑期はそのままに(ただし終身が加わる)懲役に一本化された。先の小原監獄則は,従来用いられていた囚獄の語を監獄に変え,独房制を導入し,未決・既決,男女を分けるなど進歩的であったが,財政的理由等から本格的実施をみないまま効力を停止された。…
…やがて,フランス革命の精神を反映した1810年のフランス刑法典が成立し,19世紀を通じて,近代刑法の模範とされたのであった。 日本では,明治維新後,1868年(明治1)に仮刑律が制定され,続いて新律綱領(1870),改定律例(1873)が制定されたが,これらは,中国法系の律の影響を強くうけたものであった。日本の刑法が近代化するのは,82年に施行された旧刑法によってである。…
※「改定律例」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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