放光寺(読み)ほうこうじ

日本歴史地名大系 「放光寺」の解説

放光寺
ほうこうじ

[現在地名]塩山市藤木

恵林えりん寺の北にある。高橋山と号し、真言宗智山派。明治二七年(一八九四)までは真言宗醍醐寺報恩院末であった。本尊は金剛界大日如来。寿永三年(一一八四)安田義定により創建され、開山は賀賢(甲斐国志)。往古は高橋山多聞院法光寺と称した(当寺旧蔵寛保三年梵鐘銘)。安田義定はまき(現東山梨郡)八幡やわた(現山梨市)を中心に峡東きようとう一帯に勢力をもっていた甲斐源氏の一族で、治承・寿永の内乱では源頼朝の挙兵に加わって武功をたて、寿永二年八月一〇日遠江守護に任じられた。だが頼朝に反逆を企てたとして建久五年(一一九四)八月一九日梟首となった(吾妻鏡)。義定の生害の地を「尊卑分脈」は「甲斐国馬木庄大井窪大御室」とし、「鎌倉大草紙」では「法光寺にて自害」としている。当寺蔵の義定の位牌には「法光大禅定門」、裏に「建久五年甲寅八月十九日」と記される。この間建久二年八月二七日安田義定から当寺に寄進された銅鐘の銘に「牧庄法光寺」と刻されている。同鐘は建治元年(一二七五)一二月八日比丘尼新阿を願主として、建武三年(一三三六)三月二七日には沙弥性光を修理大勧進として改鋳され、現存のものはさらに貞治五年(一三六六)の改鋳で、同年一二月二七日の銘がある。


放光寺
ほうこうじ

[現在地名]王寺町本町二丁目

王寺小学校北西に所在。片岡山と号し、黄檗宗。本尊十一面観音坐像。往時片岡王かたおかおう寺また片岡僧かたおかそう寺とも称し、小学校敷地にあった。正安四年(一三〇二)の放光寺古今縁起(王寺町有文書)には敏達天皇第三皇女が「片岡の中山」に宮を造って片岡宮といい、これによって片岡姫と称して仏教に帰依、天皇の許可を得て宮を寺となし片岡寺と名付け、用明―聖武の各天皇や聖徳太子興隆に尽し、金堂講堂・食堂・五重塔・経蔵・鐘楼・三面僧坊・浴室・諸門・回廊などを備えた大伽藍であったと記す。

天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には推古天皇六年に播磨国の水田五〇万代を聖徳太子に布施した時、太子は斑鳩いかるが(法隆寺)中宮ちゆうぐう(現奈良県斑鳩町)、片岡僧寺の三ヵ寺へ分賜したという記事がある。


放光寺
ほうこうじ

[現在地名]松本市蟻ヶ崎 放光寺

犬飼城山いぬかいじようやま(現城山)の峰続きの丘陵とその麓にある。創建時は真言宗の寺で、現在は曹洞宗。所在地は放光寺山ともいわれ、松本市街地への眺望が最もよく、東方浅間・山辺やまべの温泉地帯を経て、袴腰はかまごし山・おうはな鉢伏はちぶせ山を望む。

放光寺は古代この地方にあった辛犬からいぬ郷を背景として創始されたと思われる。「信府統記」に「日光山放光寺、智積院末寺ナリ、庄内組蟻ケ崎村ニアリ、当寺ハ桓武天皇ノ延暦年中、上州ノ講師沙門勝道草創ナリ、田村将軍ノ建立ノヨシ云伝フ、住持代数モ分明ナラズ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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