氏人をその氏より追放すること。とくに藤原氏における放氏が歴史上有名である。藤原氏の放氏は平安末期以降,一時熾烈を極めた氏寺興福寺の衆徒の強訴の一環として発生した。衆徒はおのれの主張を通すため,氏社春日大社の神木を奉じて入洛強訴し,その間,氏寺・氏社に不利益をもたらす言動があったとみなされる氏人があれば,衆徒が罪状を詮議し,結果を春日明神に告げて氏より勘当し,興福寺別当から氏長者に報告される。放氏された氏人は,朝廷に出仕できないのはもちろん,家に謹慎閉門して赦免を待つほかなかった。衆徒の怒りが解ければ処分が解除され,氏に復帰する。これを続氏とか継氏とかいった。こうして藤原氏の廷臣は放氏を恐れて自由な言動ができず,いったん神木が入洛すると,藤原氏によって大半を占められる朝廷の機能は大きく阻害されたので,放氏は興福寺衆徒が朝廷を脅迫する強力な武器となった。
藤原氏の廷臣が初めて放氏されたのは,1163年(長寛1)の参議藤原隆季の例である。隆季が園城寺をめぐる延暦寺と興福寺との抗争事件に際し,朝廷の評議において延暦寺の申状に賛意を表したというのが放氏の理由であるが,隆季が後白河院の有力な近臣であったことも,衆徒に目をつけられる因となったであろう。室町時代に至る300年間に,22回の放氏の例が数えられるという(大屋徳城《日本仏教史の研究》)。なかでも1292年(正応5)の場合は12人もの廷臣が放氏され,伏見天皇はその日記に〈雅意にまかせて張行,憚る所なきか。所行の企もっとも奇恠,定めて神明も納受なきものか〉と書いて,衆徒のわがままな行為を強く非難している。しかしこうした放氏の濫発は,しだいにその権威を失わせた。1505年(永正2)の飛鳥井宋世(俗名雅康)の放氏は,犯罪僧の父親であるというだけの理由で,20余年も前に出家している宋世を放氏に処したものであるが,その処置には興福寺のなかでも強い異論が出された。そして09年には興福寺と多武峰(とうのみね)との所領争いから,始祖の大織冠鎌足を放氏にするというナンセンスな言辞まで飛び出した。さすがにそれは実現しなかったが,これを聞いた三条西実隆はあきれてものも言えないと日記に書いている。かくして放氏も末期的症状を呈し,自然に消滅してしまったのである。
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
氏人(うじびと)を、その所属する氏から追放すること。とくに平安時代末期以降、藤原氏の氏寺興福(こうふく)寺の衆徒による強訴(ごうそ)のなかで、藤原氏の氏人の放氏が盛んに行われた。強訴による藤原氏の放氏の初例は1163年(長寛1)の参議藤原隆季(たかすえ)の場合で、興福寺と延暦(えんりゃく)寺の抗争の際に延暦寺側の主張に賛同したのが放氏の理由であった。追放は氏長者(うじのちょうじゃ)の長者宣(せん)をもって宣告されるが、追放された氏人は朝廷への出仕もできず、ただ謹慎して処分の解除を待つ以外に術(すべ)がなく、衆徒が入洛すると、廟堂(びょうどう)に多数を占める藤原氏の公卿(くぎょう)らは自由な立場で発言することが困難となり、しばしば政務の運営に支障をきたした。藤原氏の放氏は、室町時代に至る間、20数回に及ぶといわれるが、濫発によってしだいにその権威を失い、やがて消滅した。
[吉岡眞之]
『『古事類苑 姓名部』(1980・吉川弘文館)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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