北京の旧市内のほぼ中央を占める紫禁城のことで,明・清時代の宮城だから故宮といわれる。もとはこれとともに宮苑や官庁を併せ含んだ区域を皇城と称したが,周囲の城壁は早くから取り払われている。1417年(永楽15)に明の成祖永楽帝が南京から都を移し,元の宮城跡に築いたもので,明末に大破壊をこうむったあと,清がほとんどその規模を受けついで復興し今日にいたった。地域は南北960m,東西760mで,高さ10mの厚い城壁に囲まれ,四面に各1門,四隅に角楼を設け,その外に幅50m余の堀をめぐらす。もとの皇城の正門に当たる天安門から,東の太廟(現,中山公園)と西の社稷(しやしよく)壇(現,労働人民文化宮)の間を通り,端門をへて宮城の正門である午門に達する。これをくぐると,御河に架した金水橋を隔てて太和門があり,内に太和殿,中和殿,保和殿の3大殿が南北に並び,きわめて壮観である。これらは国家の重要な儀式を行ったところで,中でも正殿である太和殿は正面約60m,奥行き約33mの大建築である。東側には東華門内に文華殿,文淵閣,西側には西華門内に武英殿,南薫殿などがあり,以上の南半部は皇帝の公的な場所という意味で外朝と称する。その北半部は皇帝一家の私的な住居で内廷と称し,保和殿背後の乾清門から北に乾清宮,交泰殿,坤寧宮などが一直線に配置され,北門である神武門に終わっている。これを中央にして内廷は南北縦割りに5区域に分かれ,それぞれに多数の建築が立ち並ぶ。諸建築は明代の遺構もあるが,大部分が清代のもので,広大な敷地に黄釉の瓦屋根と朱塗りの柱壁が相映じ,往時の絶大な皇帝権を象徴する。中華民国成立後も清朝最後の宣統帝は故宮に住むことを認められていたが,1924年に脱出し,莫大な財宝は国務院に接収された。今日では国有の文化財として全国重点文物保護単位に指定され,故宮博物院と称し一般に公開されている。
→大都
執筆者:日比野 丈夫
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…宋の宮殿も唐制をつぐが,いわゆる征服王朝であった遼の上京と金の上京は,本城に接続して漢城を設け東を正面にしたし,元の大都では宮城が南端近くにあってモンゴルの風習に従うところが多かった。明・清時代に北京紫禁城に造営された宮殿の規模は,故宮の名で現存している。南の天安門から午門をへて儀式場である太和・中和・保和の3殿が縦に並び,その東西に文華殿と武英殿が配されていて,これが外朝にあたる。…
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