貧困で生活不能の者に対して公的救護義務主義にたって救護することを明らかにした救貧立法。昭和4年法律第39号。50年以上存続してきた慈恵的で劣悪な内容の恤救(じゅっきゅう)規則(1874)にかわって世界恐慌の年1929年に成立した。救護機関(市町村長および補助機関としての名誉職委員)、救護内容(生活扶助、医療、助産、生業扶助、埋葬)、救護方法(居宅保護原則)ないし救護費負担(国2分の1以内、道府県4分の1、市町村4分の1以上)などを規定している。その限りで恤救規則の「根本的改善の趣旨」にふさわしいもののようであったが、保護を受ける権利は当局によって依然否定され、貧困者が保護を受けうるのは単に法の反射的利益にすぎないとされた。また貧困者に扶養能力のある扶養義務者があるときは、実際に扶養が行われていなくても貧困者は保護を受けることができないとされた。家族制度の美風維持がその理由であった。最大の欠陥は、恐慌による失業者増大のおりにかかわらず、恤救規則同様、労働能力のある者は保護しないとする制限扶助主義がとられたことである。このような救護法に対してすら政府は財源難を理由に施行を無期延期するとし、全国の方面委員(民生委員の前身)を中心とした救護法実施促進運動などに押されて、競馬法改正で財源を得たとして32年(昭和7)1月から施行した。第二次世界大戦後、46年(昭和21)旧生活保護法施行とともに廃止された。
[小川政亮]
日本の近代における最初の貧困者救済制度といえる恤救規則(じゆつきゆうきそく)は,1874年の制定以来しばしば改正案が出されながらも長期間存続した。本法は,これに代わって1929年に制定されたものである。もっとも施行は,財政難などを理由に延期され,実施促進運動などもあって,32年にようやく実施された。明治・大正期の資本主義発展とともに,失業者の増大,中産階級の没落などによる貧困問題が大きく取り上げられるようになり,救貧制度も封建遺制の域を脱したものが目ざされた。大正末年,内務省社会局では,立案時に英独仏などの救貧関係法令を参照している。しかし本法の内容は,対象の範囲がやや広げられたほか全体として法的整備が行われたものの,国家責任や受給者の地位保障も法文化されず,労働能力ある者や能力ある扶養義務者がいる場合の保護対象からの排除など,重大な制約を残していた。本法は,第2次大戦後45年末の生活困窮者緊急生活援護要綱,ついで翌年の旧生活保護法の制定によって廃止された。
→救貧制度 →生活保護
執筆者:小沼 正
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…第2次世界大戦後の48年,〈福祉国家の確立〉とともに,15世紀末以来の救貧法は終止符を打った。
[日本]
1834年に施行されたイギリスの新救貧法に匹敵するのは,1929年公布,32年実施の救護法であると見てよい。それ以前には1874年の恤救規則があった。…
…イギリスの1601年エリザベス救貧法は全国的に制度化された公的扶助の嚆矢(こうし)であるといってよく,救貧制度として幾度かの改正を経て,1948年国民扶助法に至り,前述の狭義の公的扶助が確立した,といってよい。日本についていえば,1874年恤救規則から1929年(施行は1932)の救護法を経て,戦後の生活保護法に至る過程である。 公的扶助という用語が日本に定着したのは,第2次大戦後の占領軍公衆衛生福祉局の使用による。…
…しかしながら,日本では資本主義の発展が遅れ,社会が長く共同体的な要素を包摂しつづけたこともあって,第2次大戦以前における発展は著しい立遅れを示した。そのことはとくに公的救済の側面についていえることで,1874年に極度に制限的な救貧規程である恤救規則(じゆつきゆうきそく)が制定されてから1929年に公的扶助義務主義をとる救護法が成立するまで,公費による救済は小規模なものにとどまり,民間の救済に依存するところが大きかった。その後,第2次大戦前夜になると母子保護法の制定(1937)や保健所法(1937)による保健サービスの導入など施策の拡大がみられたが,それも健民健兵政策の一環として実現したものであった。…
…明治初期に生まれた恤救(じゆつきゆう)規則(1874)は,イギリスの救貧法と同じように極貧かつ病弱老衰の独身者を対象にした劣悪な慈恵的救貧制度であった。1929年にこれを全面的に改正した救護法が制定されていちおう近代的改装を施したが,慈恵主義的思想には基本的変化はなかった。他方,大正デモクラシー後の社会不安に対処するため,1922年に一定所得以下の常用労働者を対象とする健康保険法が制定され26年から施行された。…
…1874年に出された太政官達で,1932年の救護法施行まで,日本の救貧制度の中心として存続した。明治新政権はそれまで幕府や藩などで実施していた救貧政策を,中央政府の絶対主義的な強力な統制下に置くこととし,地方の専断を禁じささいな点まで中央政府の承認を要することとしたが,恤救規則の内容は,旧来の幕藩体制的救済理念に基づくもので,文字どおり慈恵的なものであった。…
…しかしこの規則は救済の前提に家族扶養や隣保相扶を置き,国や地方公共団体は補充的に救済するという制限的な内容であり,第1次世界大戦後の深刻な経済不況の影響を受けて発生した大量の生活困窮者を救済できるものではなかった。このため1929年救護法が制定されたが,いぜん救済は差別的,制限的なものであった。第2次世界大戦が開始すると母子保護法,軍事扶助法,医療保護法,戦時災害保護法など救護法を補充する立法が行われたが,大戦終了を転機に生活困窮者が急増し,戦前の分散化された救済制度では非能率であり,また適切弾力的な対応措置を講ずることはとうてい不可能であった。…
…さらに借地借家調停法(1922公布),小作調停法(1924公布),労働争議調停法(1926公布)などの調停法が,国家の後見的介入によって,社会関係の動揺に伴う紛争の解決を図った。他方,治安立法と社会政策立法は,25年の治安維持法や29年の救護法(施行は1932)などによって強化された。ところで産業法が,この時期に著しい発展を遂げた。…
※「救護法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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