改訂新版 世界大百科事典 「救貧制度」の意味・わかりやすい解説
救貧制度 (きゅうひんせいど)
貧困者救済制度であるが,単に救済だけでなく,ひろく治安維持を目ざした矯正,抑圧の意味を持つこともある。ヨーロッパの中世封建社会では教会などにより慈恵的な〈与える〉だけの施策がとられていたが,資本主義社会に入って大量の貧困者が発生し,国家など公的権力の責任において組織的対策がとられるようになった。
イギリス
絶対王政期に入り救貧法Poor Lawが生まれた。農村における囲込み(エンクロージャー),封建家臣団の解体,宗教改革にあたっての国王による修道院没収などにより封建的農奴制は崩壊し,多数の浮浪貧民が生じた。これらの貧民は,中世における無能力貧民ではなく,盗賊ともなりかねない労働能力をもつ貧民であり,その数もはるかに多く,国家の力をあげて組織的に対処せざるをえなかった。救貧法は近代的制度の嚆矢(こうし)とされるが,その集大成である1601年のエリザベス救貧法は,教(会)区parishを行政単位として,有能貧民と無能貧民に分け,有能貧民と児童とは労役場work house,懲治監house of correction,一般監獄などで懲罰を加えてまで就労を強制し,無能貧民は保護する,というものであった。
その後,居住制限法(1662),労役場テスト法(1722),ギルバート法(1782)の制定や1795年のスピーナムランド制度の導入など,救貧制度にはいくたの変遷が見られたが,産業革命進展の結果,有能貧民は産業労働者と化し,救貧法の抑圧管理の性格は不要となった。1834年の新救貧法は,チャドウィックらの調査委員会資料に基づいて,有能貧民を締め出し,それへの救済を制限しようとするものである。行政単位は教区連合parish unionに拡大された。有能貧民の居宅保護を禁止する過酷な労役場収容の原則,救済を最下級の独立労働者の生活以下に抑える劣等処遇less eligibilityの原則などの上に立っている。後者は,貧困原因を社会ではなく個人に帰し,実質上人間的救済の拒否を意味していた。
1800年代後半に入ると,イギリスは繁栄の絶頂に達した反面,しばしば経済恐慌に見舞われた。労働者の失業と窮乏化は促進され,他方労働者の政治的権力も拡大し,またCOS(コス)/(シーオーエス)やセツルメントなど民間慈善運動の組織化も進められた。1905年から〈社会改革〉の一環として社会改良政策が展開され,08年無拠出老齢年金法,11年国民保険法(1部は健康,2部は失業)など救貧制度の枠を越えるものが実施された。05年に任命された〈救貧法および失業者救済に関する王命委員会〉が,09年に提出した報告書は,救貧法拡大強化の多数派と救貧法解体の少数派とに意見が分かれた。しかし両派ともに古い慈恵的抑圧的救貧から脱して,予防に重点を置こうとするものであった。やがて第1次世界大戦後の膨大な慢性的失業者の出現を迎えて,社会保険と公的扶助による社会保障体系の確立へと進んでいく。この場合,公的扶助の主流は35年実施の失業扶助unemployment assistanceであり,その対象者はもはや極貧者中心ではなかった。第2次世界大戦後の48年,〈福祉国家の確立〉とともに,15世紀末以来の救貧法は終止符を打った。
日本
1834年に施行されたイギリスの新救貧法に匹敵するのは,1929年公布,32年実施の救護法であると見てよい。それ以前には1874年の恤救規則があった。これは,全国的制度として無能力貧民を対象とするなど制限扶助主義的・慈恵的であり,明治期に出された3度にのぼる改正案も成立しなかった。救護法は,第1次世界大戦後の恐慌による失業の深刻化等を背景に制定され,その立案にはイギリス,ドイツ,フランスなどの制度を参考にしたが,家族制度を重視し,労働能力をもつ失業者を排除するなど,救貧遺制を引きずっていた。これが社会保障制度として脱皮するには,第2次大戦後の占領軍指導による(旧)生活保護法の成立を待たねばならなかった。
→慈善事業 →生活保護
執筆者:小沼 正
中国
19世紀半ばまでの旧中国では,儒教の経典《礼記(らいき)》の王制篇などの理念に基づき,身寄りのない矜(やもめ),寡婦,孤児,老人,廃疾者などを為政者が仁愛をもって救済すべきであるとされ,その政策を卹政(じゆつせい)と呼び,個人がそれを行えば義挙と賞揚された。血縁,地縁共同体の残存度の強い唐代前半までは,貧民の救済はまず近親,ついで郷里の者に強制され,国都長安などの大都市では悲田院(福田院)や病坊などの施設が作られてはいたが,仏教を中心とする宗教的慈善事業の色彩が濃厚であった。宋代に入って都市が発達し,貧しい人たちがそこに集まりはじめると,政府も本格的な救貧政策に取り組んだ。12世紀初め,北宋末の徽宗(きそう)時代はその一つのピークで,全国の府州県に居養院(養老),安済坊(医療),漏沢園(墓地)が設けられ,よるべなき貧窮者や死者を収容し,城郭内では,冬の数ヵ月間を限って食糧と寝所を提供する制度が定着化した。
南宋の国都臨安では,冬期に3日ないし5日に1回穀物を支給される貧民が5000人以上を数え,飢饉などの年には周囲よりの流入人口も加えておびただしい数にのぼった。救貧施設は,財源としての不動産などが有力者によって侵奪される場合が多く,必ずしも円滑に運営されなかったが,熱心な地方官や篤志家が出ると300人,500人を収養するよう施設が整備され,養済院,安養院などさまざまな名称がつき,また旅行中の病人のための安楽廬や,捨子の施設,慈幼局などに分化した。また施設の人員としては得度前の童行(どうぎよう)が多く加わっていた。
明・清時代になると制度的には官営救貧施設はますます整備,細密化するが,全国に広く置かれるようになった会館,公所など同郷地縁団体を軸とする救済機関のほうが現実には有効な機能を果たし,これまた著しく多様化した。これらはすべて鎮,県以上の都市の貧民救済を目的とし,農村を中心とした常平倉,社倉や,災害時の臨時的な救済とは制度を異にしている。
執筆者:梅原 郁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報