社会福祉とは,ごく一般的にいえば低所得,要扶養,疾病,心身の障害,高齢などに起因する生活上の困難や障害に対して,その解決や緩和をめざして発展させられてきた社会的な施策とそのもとにおいて展開される援助活動の総体である。こうした施策・活動の生成は一定の発展段階に到達した社会に共通する現象であるが,その理念,形態,内容は時代と国によって違いがある。おのずと社会福祉の理解のしかたも多様にならざるをえないが,およそのところ以下の3通りに整理することができる。
第1の理解は,社会福祉を社会保険,公的扶助,福祉サービス,保健,教育,雇用,住宅,更生保護などを包摂し,かつそれらを総括する概念とみなす場合である。イギリスやアメリカに多い理解のしかたで,ここでは社会福祉はなんらかの固有の目的や内容をもつ施策や活動としてではなく,広く公共政策の達成すべき理念を意味する概念として位置づけられている。日本において福祉,福祉政策という場合もこれにあたる。
第2の理解は,社会福祉を社会保障の構成要素の一つとみなす見解である。日本では1950年の社会保障制度審議会の勧告に代表される見解であるが,社会福祉は社会保険,国家扶助,公衆衛生および医療と併置されたうえで,〈国家扶助の適用を受けている者,身体障害者,児童,その他援護を必要とする者が,自立してその能力を発揮できるよう,必要な生活指導,更生補導,その他の援護育成を行うこと〉と規定されている。ここでは社会福祉は今日にいう福祉サービスに該当するものとして扱われている。
第3の理解は,公的扶助と福祉サービスを一体的に社会福祉としてとらえる立場であり,社会福祉の歴史的な沿革を重視した最も伝統的なとらえかたである。
このうち日本で最も広く流布しているのは第3の理解のしかた,すなわち社会福祉を公的扶助と福祉サービスから構成されつつ,独自の機能と領域をもつ社会的施策と活動の体系として理解する立場である。社会福祉は歴史的には貧困者対策としてはじまるが,実際日本においても1950年代までは最低生活水準の保障を目的とする公的扶助が社会福祉の中心的な位置を占めていた。しかしながら,60年代後半以降になると,貧困者のみならず,地域社会で生活する高齢者や障害者の生活問題が拡大するとともに,貧困者のための保護施設の周辺に児童,母子,障害者,高齢者のための各種の施設,さらには在宅福祉サービスが追加され,福祉サービス部門の目ざましい発展がもたらされ,今日では明らかに福祉サービスが中心的な位置を占めるようになっている。イギリスやアメリカでも日本に先行して同様の展開がみられ,それぞれ個別的対人社会サービスpersonal social services,ヒューマン・サービスhuman servicesと呼ばれる領域を発展させてきた。いずれも日本の福祉サービスに該当する領域である。こうした傾向の背景にあるのは,社会の成熟化,少子高齢化にともない,社会保険や公的扶助という貨幣の給付による所得保障とは別に,人的サービス,物的サービス,システム的サービス,社会的便益の提供を内容とする非貨幣的なサービスに対する期待が拡大してきたという事実である。こうした状況のなかで,最近では社会福祉を福祉サービスを意味する概念として限定的に用いる場合も多くなってきている。
社会福祉の淵源を宗教家による慈善や権力者による慈恵政策にまで遡及(そきゆう)するとすれば,その歴史は古いといえようが,しかし今日の社会福祉に直接つながるような施策は資本制社会(近代市民社会)の,それも20世紀の初頭にようやく形成されはじめた。もともと商品交換関係が社会全体を支配する資本制社会においては,その構成員たる市民には等しく財産権,自由権,平等権を内容とする市民権が保障され,彼らはそのことによって,自営労働たると雇用労働たるとを問わず,みずからの生命と生活を維持しうるものとされる。このため資本制社会の発展期を意味する産業革命以後,貧困は個人の能力や性格の欠陥によるものとされ,貧困者の救済は求援抑制的な救貧法と慈善事業による消極的なものにとどまっていた。しかしながら,資本主義が変質しはじめた19世紀末から20世紀初頭にかけて,貧困やその背景としての低賃金,失業,傷病の社会的な原因についての認識が深まるにつれ,これらの生活上の危険に対する施策が社会的責任において形成されはじめた。労働者や庶民にとって財産権・自由権・平等権による自助の可能性は,一つの虚構であった。イギリスでは,1908年に無拠出老齢年金法が,11年には健康保険と失業保険をその内容とする国民保険法が制定され,社会保険を中心とする防貧的施策が成立した。他方において,これと並行するかたちで伝統的な救貧法の部分的改良や慈善事業の近代化が進み,新たに児童保護施策や保健サービスも形成され,ここに社会事業の成立をみるのである。アメリカにおいて,母子扶助や老齢扶助,セツルメント活動,慈善団体による援助活動を中心に社会事業が成立したのも,20世紀初頭のことであった。しかし,その社会事業もいまだ貧困者対策としての域を出ず,慈恵的ないし恩恵的な色彩の濃いものであった。
このような社会事業は,やがて国民一般を対象とする生存権保障制度の一環としての社会福祉へ脱皮することになるが,その過程において重要な契機を与えたのは第1次大戦とロシア革命,1929年に始まる大恐慌,そして第2次世界大戦であった。第1次世界大戦とロシア革命は国民の生存権に関する規定をもつ世界最初の憲法であるワイマール憲法をはじめとして労働者の政治的経済的同権化を推進する諸施策を成立させる契機となり,大恐慌はこれまた世界で最初に社会保障という名称を冠した社会保障法Social Security Act(アメリカ)の制定(1935)をもたらした。第2次世界大戦は,イギリスにおける福祉国家政策の青写真となったベバリッジ委員会報告(ベバリッジ報告)を生み出す契機となった。社会福祉はこのような戦間期における諸契機を背景にもちつつ,第2次大戦後資本主義諸国に拡大していった福祉国家体制のもとで本格的な展開をとげることになった。
このような歴史的背景をもつ社会福祉は,各国の歴史,人口,民族,経済,政治,文化など多様な諸条件によって多様な形態をとるが,そこに共通している特徴は,(1)国民一般(諸階層)を対象にしていること,(2)その生存権保障施策の一環として位置づけられていること,(3)国および地方自治体の責任と民間諸団体の参加と協力のもとに展開されていること,(4)人びとの社会生活上の障害や困難の解決・緩和,最低生活水準の保障,自立生活力の育成,自立生活の援護,さらには社会資源の開発を目標としていること,(5)基本的には一定の知識と技術をもつ専門家集団によって供給されていること,などである。
日本における社会福祉の展開も,基本的にはイギリスやアメリカにおけるそれに共通する。しかしながら,日本では資本主義の発展が遅れ,社会が長く共同体的な要素を包摂しつづけたこともあって,第2次大戦以前における発展は著しい立遅れを示した。そのことはとくに公的救済の側面についていえることで,1874年に極度に制限的な救貧規程である恤救規則(じゆつきゆうきそく)が制定されてから1929年に公的扶助義務主義をとる救護法が成立するまで,公費による救済は小規模なものにとどまり,民間の救済に依存するところが大きかった。その後,第2次大戦前夜になると母子保護法の制定(1937)や保健所法(1937)による保健サービスの導入など施策の拡大がみられたが,それも健民健兵政策の一環として実現したものであった。その反面,戦前においては退職軍人,軍人遺家族,傷病軍人に対する扶助は一般国民に優先して手厚く行われた。
第2次世界大戦後,連合国軍の占領下,このような日本の社会福祉は戦後改革の一環として大幅に再編成され,近代化されることになった。今日の社会福祉の骨格となっている法制は,いずれも戦争直後から1960年代前半にかけて制定されている。主要法制とその制定年をみるとつぎのようである。1946年生活保護法(1950年に大改正され現行法となる),47年児童福祉法,49年身体障害者福祉法,51年社会福祉事業法,60年精神薄弱者福祉法,63年老人福祉法,64年母子福祉法(1981年母子及び寡婦福祉法に改称),65年母子保健法,82年老人保健法。このうち社会福祉事業法は社会福祉の組織のあり方に関する規程であるため,これを除いた生活保護法から母子福祉法までを一括して福祉六法と呼んでいる。生活困窮者に対する現金給付の制度である生活保護法を別にする場合には残りを福祉五法というが,現物の形態をとるサービス給付であることがその共通点となる。母子保健法や老人保健法もその淵源からすれば,この範疇(はんちゆう)に加えることができる。また,1995年には〈精神保健及び精神障害者福祉に関する法律〉(精神保健福祉法)が制定され,精神障害者も福祉サービスの利用者に含められることになった。そのほかに,売春防止法,犯罪者予防更生法,行旅病人行旅死亡人取扱法による事業や児童手当法,児童扶養手当法,特別児童扶養手当法などの社会手当方式による現金給付を社会福祉の枠に入れる見解も多く見受けられる。
これらの法制に依拠する社会福祉が国の責任において実施されることはいうまでもないが,そのことは必ずしも国が直接的に給付事務を行うことを意味しない。国は一部の直営施設の経営を別にすれば,その業務を地方公共団体に対する指揮監督および費用の負担に限定し,多くの部分を地方公共団体の長に委任(機関委任)し,または地方公共団体に委任(団体委任)している。90年代には,地方自治体,なかでも市町村の役割が拡大してきており,老人福祉および身体障害者福祉の領域においては基本的には市町村によって福祉サービスが運営されるようになっている。都道府県が中心になって運営されている社会福祉のその他の領域,すなわち児童福祉,母子及び寡婦福祉,精神遅滞者福祉の領域においても保育所やホームヘルプサービス,デイサービス,ショートステイなどの在宅サービスについては市町村を実施主体として運営されている。すなわち,今日日本においては社会福祉の責任は最終的には国に帰属するということにおいて戦後一貫した体制がとられているが,その運営については市町村が中心的な役割を引き受けるようになっているといってよい。分権と地域社会を基盤とする地域福祉型あるいは自治型社会福祉の時代を迎えようとしているのである。
すでにみてきたように日本の社会福祉は公的扶助と福祉サービスから構成されている。具体的には,公的扶助は国民に対して日本国憲法に規定されている健康で文化的な最低限度の生活を維持する権利を保障することを目的としている。福祉サービスは,国民がその生涯にわたる生活のなかで直面するさまざまの困難や障害に対して,それらを解消し,あるいは軽減緩和することを通じて,その自立生活を支援することを目的とするものである。そのような福祉サービスは,個人や家族の生命や活力の維持・再生産,また自己の実現や尊厳を考えるとき,個人や家族の独自の所得,人的資源,資産などによって充足しえない部分について社会的に対応しようとする施策,制度,ならびにそのもとにおいて展開される援助活動であり,その内容は(1)代替的サービス,(2)補完的サービス,(3)専門的サービスに分類することができる。さらに,近年においては(4)予防的サービスや(5)増進的サービスの重要性が強調されつつある。
(1)代替的サービスは家族の機能の一部もしくは全部を代替するサービスであり,救護施設,乳児院,児童養護施設,養護老人ホームなどがその内容を構成している。(2)補完的サービスは家庭の機能の一部を補完するサービスであり,保育所,ホームヘルプサービスなどである。(3)専門的サービスは,平均的一般的な個人や家族の所得や資産,人的資源をもってしては充足することのできないニーズに対するサービスであり,障害児施設,児童自立支援施設(教護院),特別養護老人ホーム,また育成医療,更生医療などによる専門的な生活指導,医療やリハビリテーション,職業訓練,相談助言の提供がこれにあたる。さらに,市場を通じては取得しがたい補装具や日常生活用具,たとえば車いす,視覚障害者用ワープロ等の提供・貸与等がこれに該当する。(4)予防的サービスは福祉ニーズの発生を未然に防止するサービスであり,母子保健サービス,老人保健サービスなどが対応する。(5)増進的サービスは生活の質の向上や自己実現の促進を目的とするサービスであり,児童厚生施設(児童館・児童遊園),母子休養ホーム,老人憩いの家などがそうである。
1997年現在,日本の社会福祉の将来にとって極めて重要な意味をもつことが予想される二通りの改革が進行中である。一つは児童福祉法の改正であり,いま一つは介護保険法の制定である。児童や家族の自立ないし自立生活の支援,選択権,負担の公平をキー概念として推進された児童福祉法の改正は1998年度から施行されるが,なかでも重要なのは保育所の利用が従来の措置方式から児童の保護者による保育所の選択と申請を前提にする申請応諾方式が導入されたことである。この改革は利用者による福祉サービスの選択と申請という方式に先鞭をつけることになった。実際,この方式は介護保険法にも導入されている。しかしながら,むしろ介護保険法の最も重要な点はその財源システムとして社会保険方式が導入されていることである。戦後50年を通じて福祉サービスは公費の支弁と受益者負担という方式によって維持されてきた。介護保険法は40歳以上の国民に加入を強制する社会保険方式によって福祉サービス(介護サービス)を提供しようとするものであり,今後の福祉サービスのあり方,さらには社会福祉の存在意義やその性格について根源的な再検討を促すような可能性を秘めている。
執筆者:古川 孝順
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
社会福祉は多義的な概念である。日本における一般的な用語法によれば、それは、基本的には次の二つの意味のいずれかで使われている。
(1)社会成員の幸福な状態。それは、現実にはまだ実現していないものであり、したがって、目標や理想として追求するべきものであるとされることが多い。
(2)社会成員の幸福な状態をもたらすための制度、政策、実践など。
(1)を目標概念、(2)を手段、方法を表す実体概念ということもある。
[副田義也・株本千鶴]
日本の社会福祉研究の初期の代表的研究者竹中勝男(1898―1959)は、主著『社会福祉研究』(1950)において、福祉を意味するドイツ語Wohlfahrtの語源を研究し、先に述べたところとほぼ同じ結論に達している。このことばは、16世紀ごろwohlとfahrenとが結び付いて慣用的に使われ始めたものである。wohlは、願う、望むという意味の動詞wollenの語基が副詞化したもので、英語のwellにあたる。fahrenは、一つの場所から他の場所に移るという意味の動詞である。この二つの単語が結び付いた結果としてのWohlfahrtは、望ましい状態に変えるという内容をもつことになった。そうして、このことばには、人間の生活の理想状態という意味と、その状態に向かう営み、活動という意味とがある。
[副田義也・株本千鶴]
「社会福祉」ということばが、国民の間に広く知られ、使われるようになったきっかけの一つは、それが1946年(昭和21)に制定された日本国憲法の条文に登場したことであろう。
「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
この条文に託されている社会福祉は何を意味しているかについて、憲法学者宮沢俊義(としよし)は、『憲法Ⅱ 基本的人権』(1959)において、「社会福祉とは、国民生活をできるだけ豊かならしめること、社会保障とは、国民の生存を、公的扶助または社会保険により確保すること、そして公衆衛生とは、国民の健康を保全し増進することをいう」と述べている。すなわち、これによれば、社会福祉とは、国民の幸福を「豊か」な状態に具体的に特定化し、その状態に国民の生活をできるだけ近づけることであるということになる。これは、一般的な用語法でいう手段、方法としての社会福祉、竹中のいう生活の理想状態に向かう営み、活動としての福祉と共通する部分が大きい。
しかし、憲法学者の間でも、この社会福祉について別の解釈もある。小林直樹(なおき)(1921―2020)は『現代基本権の展開』(1976)において、日本の憲法の枠組みのなかでいえば、第25条は、社会福祉の「広狭二つの実用=制度的概念」を与えている、と述べている。「その前段で、すべての国民が有するとされるいわゆる生存権、すなわち『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』は、広義の(但(ただ)しミニマムの)社会福祉を指すとみてよいだろう。その後段で、『社会保障及び公衆衛生』という言葉に並記された『社会福祉』は、社会事業と殆(ほとん)ど同義の狭い概念である」とした。引用文中の社会事業は、現行制度としての社会福祉事業をさすものであろうと解される。
[副田義也・株本千鶴]
小林による、憲法の条文中に現れる社会福祉の規定と同一の社会福祉の定義は、社会保障や社会福祉事業の研究においてしばしばみかけられる。おそらく、小林の先の規定はそれらに倣ったものであろう。この種の定義の先駆例の一つは、社会保障制度審議会が1950年(昭和25)に行った勧告のなかにみられる。それによれば、狭義の社会保障は、国家扶助(公的扶助)、社会保険、社会福祉、公衆衛生・医療の4部門に分かれる。広義の社会保障は、これらに、恩給、戦争犠牲者援護が加えられ、さらに、関連制度として住宅対策および雇用対策の一部があげられている。つまり、社会福祉は社会保障の下位概念ととらえられ、そこでは、社会福祉は次のように定義される。「社会福祉とは、国家扶助の適用を受けている者、身体障害者、児童、その他援護育成を要する者が、自立してその能力を発揮できるよう必要な生活指導、更生補導、その他の援護育成を行なうことをいう」。
この社会福祉の定義がつくられた翌年に社会福祉事業法(昭和26年法律第45号)が制定されている。それは、かつて社会事業とよんだものを、いくらか発展させつつ社会福祉事業とよんだのであった。この名称の変更が行われた際の動機としては、社会事業には救済事業の古いイメージが残存しており、それが嫌われたこと、憲法で社会福祉ということばが使われており、それを取り込むことでより積極的なイメージの形成が図られたこと、などがいわれている。社会福祉事業は、その後、しばしば社会福祉とか福祉と略称されるようになった。社会保障制度審議会の1950年における社会福祉の定義は、法が定める制度としては翌1951年に現れる社会福祉事業の定義を、まえもって準備したかっこうになった。なお、旧総理府に置かれていた社会保障制度審議会は、2001年(平成13)の中央省庁再編に伴い廃止され、その機能は内閣府の経済財政諮問会議および厚生労働省の社会保障審議会に引き継がれた。
[副田義也・株本千鶴]
1970年代に登場したノーマライゼーションの概念(障害者や高齢者を排除するのではなく、ともに平等に暮らせる社会こそがノーマルな社会であるという考え方)は、おもに障害者の自立生活運動を通じて広く普及し、日本でも社会福祉の重要な理念の一つととらえられるようになった。それはまた、高度経済成長期を終えて、社会保障制度の縮小を目的とした社会保障改革の指向性に沿ったものとしても作用している。すなわち、1980年代、1990年代の社会保障基礎構造改革は社会福祉事業における公の責任を利用者への金銭的助成に限定し、サービスの供給については責任はないものとした。そこでは、自己選択によって社会福祉サービスを受給する自立した利用者が想定されている。2000年(平成12)に社会福祉事業法が改正され、社会福祉法と名称が変えられた。名称変更の意味は、事業者・提供者中心であった社会福祉を利用者中心の視点でとらえ直し、事業者と利用者を対等な関係とみることにあるといわれる。社会福祉の観点を転換させることで利用者本位の社会福祉を実現させることができるかどうかは、その名称変更の意味が制度や実践にどう反映されるかに左右される。公と私が自立と責任をどう引き受けていくのか、そのバランスの取り方が問われる。
[副田義也・株本千鶴]
欧米諸国では、方法、手段としての社会福祉について、以上に述べたところと区別されるさらに二つの用法が存在する。その一つは、社会福祉の対象は全国民であり、彼らの生活に関連するすべての社会的サービスが社会福祉であるとする。このような用例はイギリスなどで多くみられるが、具体的には、これは、福祉国家で「揺り籠(かご)から墓場まで」の国民の生活を保障するすべての政策、実践を意味し、労働、教育、住宅などの公共施策を社会福祉に含んでいる。いま一つは、それらの生活に関連するサービスを人々が利用し、自分の生活問題を自主的に解決するのを援助することが社会福祉であるとする。これは、アメリカで成立した社会事業技術の理念を極限化したところに現れる社会福祉概念というべきであろう。
[副田義也・株本千鶴]
以上の社会福祉は、明言されているか否かの違いはあるにせよ、いずれも、一つの国民社会の範囲で考えられるものであった。これに対して、世界社会、地球社会の社会福祉、人類的規模での社会福祉を考えなければならない条件がすでに熟している。福祉を世界規模で検討する発想は、1950年代にミュルダールが「福祉世界」ということばで主張していた。1990年代以降、冷戦が終結してから噴出してきたのはエスニシティ(ある民族としての特性やアイデンティティをもつ人々)の問題である。マイノリティ(集団のなかで差別・排除の対象となる人々)集団であるエスニシティとマジョリティ(集団のなかでの多数の成員)集団との共存を、政策によって解決する試みがなされるようになってきた。しかし、国民国家の概念は根強く残り、国籍を超えたマイノリティへの対応はいまだ萌芽(ほうが)状態にある。
[副田義也・株本千鶴]
『副田義也編『社会福祉の社会学』(1976・一粒社)』▽『仲村優一他編『講座 社会福祉』全10巻(1981~1999・有斐閣)』▽『一番ケ瀬康子・小松源助著『社会福祉概論』(1984・医歯薬出版)』▽『社会保障研究所編『社会福祉改革論』Ⅰ・Ⅱ(1984・東京大学出版会)』▽『仲村優一著『社会福祉概論』(1991・誠信書房)』▽『古川孝順・庄司洋子・定藤丈弘著『社会福祉論』(1993・有斐閣)』▽『三浦文夫著『社会福祉政策研究』増補改訂(1995・全国社会福祉協議会)』▽『古川孝順編『社会福祉21世紀のパラダイム――理論と政策』(1998・誠信書房)』▽『一番ケ瀬康子・高島進・高田真治・京極高宣編『総括と展望 講座・戦後社会福祉の総括と二一世紀への展望(1)総括と展望』(1999・ドメス出版)』▽『星野信也著『「選別的普遍主義」の可能性』(2000・海声社)』▽『岩田正美監、岩崎晋也編『リーディングス日本の社会福祉 第1巻』(2011・日本図書センター)』
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