中国の宮廷楽舞および演芸の教習の場をいう。隋の煬帝(ようだい)のとき(610)長安に南北楽人300人を坊に集めたのが先鞭で,唐初の武徳年間(618-626)まず内教坊が創設され雅楽を教習した。音楽を愛した玄宗の714年(開元2)になると内教坊のほかに左右教坊を長安と洛陽に各2ヵ所設置し,それまで管轄していた礼楽の役所太常寺から分離して宮廷直属とした。六朝時代より盛んになった西域,インド系の胡楽と中国俗楽,それに民間の演芸を教習し,雅楽をこととしなかったためである。同年,玄宗はさらに梨園を設立しており,ここに唐朝音楽文化は最高潮に達した。その組織は,長官の使,直接楽人を管理する都知,教習を担当する博士と男女約3000人の楽人よりなる。唐朝教坊には,太常寺より転属してきた男性楽人がおもに器楽にたずさわり,小劇や演芸曲芸をするものもいたが,重要なのは歌舞を演じる官奴の女性楽人であった。唐,崔令欽(さいれいきん)の《教坊記》は4種類に分けられている。色芸最もすぐれた内人(前頭人),琵琶など弦楽器を本来専業とする良民出身の搊弾家(しゆうだんか),それに宮人と雑婦女(見習い)である。玄宗以後,教坊の機能は徐々に低下して,819年(元和14)1ヵ所に統合された。五代をへて宋朝になると,太祖は唐制にならって960年(建隆1)再び設置した。宋では楽曲の種類により,法曲,亀茲(きじ),鼓笛,雲韶(うんしよう)の4部に分け部頭をおいたり,各楽人の担当によって,篳篥(ひちりき),笙,雑劇など13の色科を立て色長に監督させた。宋朝教坊は,男性楽人が中心となって,器楽演奏,歌舞劇の発展がみられ新作も盛んに行われた。ただし員数は大幅に減少し(北宋初め176人)また不定で,民間楽人を当てることが多かった。遼・金両朝とも教坊をもち,元・明・清三朝は礼部に教坊司がおかれて,雅俗ともに教習したが,1729年(雍正7)に和楽署と改め廃名した。日本では平安時代に女子の音楽教習の機関を内教坊といった。
執筆者:吉川 良和
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