中国、中唐の詩人。字(あざな)は楽天。本籍は太原(たいげん)(山西省)、生地は新鄭(しんてい)(河南省)。李白(りはく)の死後10年、杜甫(とほ)の没後2年、地方官吏の次男として生まれた。口もきけぬ幼時、すでに「之」と「無」との字を弁別し、5歳のころから作詩を学び、16歳で早くも人を驚かす詩才をひらめかした。当時、内乱が続き、転々として移り、遠く江南を放浪したこともあった。しかしつねに進士への勉学に努め、800年(貞元16)29歳で及第した。ついで皇帝のつかさどる親試に合格し、時代の選ばれた人となった。そのころ『長恨歌(ちょうごんか)』や「林間に酒を暖めて 紅葉を焼く」の詩歌がものされた。やがて37歳、翰林(かんりん)学士、左拾遺(さしゅうい)となり、文学で政治に参加することとなった。ときに儒教的理想主義から若い情熱を傾けて社会の矛盾を鋭く批判する『新楽府(しんがふ)』など、「諷諭詩(ふうゆし)」と名づける一群の制作を続けた。811年(元和6)母の死にあい、退いて下邽(かけい)で喪に服したが、重ねて幼い娘を失った。ここに、儒教では解決しがたい、人間における死を問題とし、道・仏の教理へ関心を強めた。かくて「感傷詩」や「閑適詩」とよぶ詩歌群がつづられた。3年ののち、太子補導役として長安に復帰したが、815年、宰相暗殺事件に関する上奏を越権行為として責められ、それを契機に、かつて「諷諭詩」で刺激した権貴の反感がよみがえり、ついに人倫にかかわるあらぬ罪名のもとに、地の果てのような江州の司馬に追放された。
かくて人生の信念が揺らぎ、権威への懐疑に取りつかれ、文学への反省が始まり、ふたたび道教や仏教を回顧することとなり、廬山(ろざん)における東林寺や草堂の生活が続けられた。やがて新しい展望が開け、『琵琶行(びわこう)』をはじめとして、「遺愛寺の鐘は 枕(まくら)を欹(そばだ)てて聴き、香炉峰の雪は 簾(みす)を撥(かか)げて看(み)る」などの詩歌が詠ぜられた。818年忠州刺史を授けられたが、太子の即位(821。穆宗)とともに、長安に召還された。しかし首都では高級官僚が分裂し、激しい権力闘争が始まっていた。822年これを避けて自ら求めて杭州(こうしゅう)刺史に出た。銭塘湖(せんとうこ)堤の修築など行政効果をあげつつも、明媚(めいび)な風光に触発されて制作は続けられた。「風 古木を吹いて 晴天の雨、月 平沙(へいさ)を照して 夏夜の霜」の詩もなった。ときに、早くから文学的知己と許していた元稹(げんしん)が、近くの越州刺史として赴任したので、唱和が重ねられ、『白氏長慶集』50巻も編集された(824)。翌年、蘇州(そしゅう)刺史に転じたが、まもなく中央に召された。しかし高級官僚の権力闘争がいよいよ厳しさを増すのをみて、829年(太和3)58歳、洛陽(らくよう)への永住を決意した。権力闘争批判の行動である。詩歌でも「蝸牛(かぎゅう)角上 何事をか争う、石火光中 此(こ)の身を寄するに」という。河南府の長官となった一時期もあったが、おおむね名目的な閑職で、「詩と酒と琴」を「三友」とし、「酔吟先生」と号し、悠々自適の日々を送った。この生活のなかで劉禹錫(りゅううしゃく)との文交が深まり、唱和集も巻を重ねた。やがて元稹などの知友が鬼籍に入るのをみて、にわかに人生の寂寞(せきばく)を感じ、仏教へ傾倒していった。竜門の香山寺を修復しては「香山居士」と称し、詩文を結集しては廬山の東林寺などゆかりの仏寺へ奉納した。制作を「狂言綺語(きご)」と観ずる懺悔(ざんげ)の行為である。842年(会昌2)71歳、刑部尚書の待遇で退官した。やがて竜門の八節石灘(せきだん)の難所を開き、「七老会」を経て、人生の決算として『白氏文集』75巻の全集を手定し、幼時に示した才能を尽くして、846年、75歳の生涯を閉じ、香山寺畔に葬られた。
この長い一生に、文学はしばしば変容した。若い日の浪漫(ろうまん)主義的傾向は、知的な光を帯びて理想主義的な立場に転じ、社会や政治を批判した。やがて社会のなかの個人をみいだし、個人に即して人間の生き方を探求する文学を形成した。その間、定型の限界的条件の下で、言語機能を駆使する唱和に専念し、「元和体」という時代様式をも創造した。さらに晩年は老荘や釈仏の高い立場から、人間の権力への欲望を風刺した。ただ一貫したのは、文学は人間の生き方を対象とし、生活意識に裏づけられねばならぬという自覚である。ために題材は経験的となり、言語は日常性を帯び、発想は心理の自然に沿い、構成は論理の必然に従い、主題は普遍的となって、「流麗坦易(たんい)」と標徴される文学を創造した。李白の「飄逸(ひょういつ)」、杜甫の「雄渾(ゆうこん)」に対し、唐一代に通じる著しい個性となった。ために在世中から民衆のなかまで流れ、牛追いや馬子にまで口ずさまれた。没後、当代の皇帝宣宗も弔詩を捧(ささ)げ、「玉を綴(つづ)り珠を聯(つら)ぬ 六十年」と詠じ起こし、「浮雲繋(か)けず 名は居易、造化無為 字(あざな)は楽天」とたたえ、文化に貢献したという「文公」を諡(おくりな)した。やがて朝鮮から日本、また越南(えつなん)(ベトナム)など、当時の漢語文化圏で歌い読まれ、流伝の広さは古今未曽有(みぞう)と称せられた。現代においても、その作品は中国はもとより東アジアを通じ、さらには欧米諸国でも高く評価され、読み続けられている。
[花房英樹]
『片山哲著『白楽天――大衆詩人』(岩波新書)』▽『堤留吉著『白楽天――生活と文学』(1957・敬文社)』▽『アーサー・ウェーリー著、花房英樹訳『白楽天』(1959・みすず書房)』▽『堤留吉著『白楽天研究』(1962・春秋社)』▽『花房英樹著『白居易研究』(1971・世界思想社)』▽『平岡武夫著『中国詩文選17 白居易』(1977・筑摩書房)』
中国,唐の代表的文学者。香山居士と号した。太原(山西省)の人。字により,白楽天とよばれることが多い。家は貧しかったが勉学にはげみ,科挙及第ののち803年(貞元19)に任官した。806年(元和1)厔(ちゆうちつ)県(陝西省)の尉となり,このとき《長恨歌》を作って詩人としての名声を得た。次いで中央政府入りして翰林学士となり,左拾遺に昇進し,当時の天子憲宗に気に入られ,しばしば意見書を呈上,さらに昇進を重ねて太子左賛善大夫に至ったが,815年(元和10)の上奏文が原因で江州(江西省)の司馬に左遷された。この失意のうちで作られたのが《琵琶行》である。その後,忠州(四川省)の刺史を経て中央に復帰し,821年(長慶1)には中書舎人となった。翌年杭州(浙江省)の刺史に転出すると,西湖に堤防を築いて灌漑事業を興した(白堤という)。ほどなく中央へもどり,刑部侍郎に至り,829年(太和3)病気を理由にいったん辞職し,次いで太子賓客として洛陽の勤務となった。842年(会昌2)刑部尚書(法務大臣に当たる)で退官し,846年75歳で卒した。唐代の著名な文人のなかでは,官僚として最も高い地位に達した人物といえる。
青年時代には,詩とは暇つぶしのおもちゃではなく,《詩経》以来の伝統を受け継ぎ,民衆を救い政治の誤りを正すためのものだと主張,〈新楽府(しんがふ)〉その他一群の社会詩を作り,〈諷諭詩〉という部類を立てた。〈新楽府〉とは漢代の歌謡〈楽府〉のあとを継いで,民間の実情を皇帝に知らしめるという,〈楽府〉本来の主旨にもどらんとするものであった。このほかには〈閑適詩〉〈感傷詩〉〈雑律詩〉とよばれる部類立てがあって,そのなかにもすぐれた作品が数多く見られる。〈閑適詩〉とは日常生活の中でわき起こる感興を詠じたものであり,〈感傷詩〉とは文字どおり感傷的な作品で,《長恨歌》《琵琶行》はこれに属する。〈雑律詩〉とはおりおりの感興を律詩の形式で詠じたもので,絶句をも含む。白居易自身は〈諷諭詩〉を最も評価していたが,晩年に向かうにつれてこれから遠ざかり,もっぱら閑雅快適の情を詠じるようになった。その作風は難解さを避け,平易な表現をめざすことを特色としており,しばしば当時の俗語をも作中に取り入れている。詩風の近い親友の元稹(げんしん)とともに〈元白〉と並称されるが,宋の文豪蘇軾(そしよく)には〈元軽白俗〉と酷評された。
白居易は生前から社会の上層下層を問わず多数の読者をもった詩人で,彼の名声は朝鮮,さらに日本にまで伝えられた。作品集を《白氏文集(はくしもんじゆう)》というが,《枕草子》に〈文は文集,文選,はかせの申文(もうしぶみ)〉とあるように,単に〈文集〉といえば《白氏文集》を指すほど,平安朝の人々に愛読された。《白氏文集》は前後集に分かれ,前集の《白氏長慶集》は,824年(長慶4)に元稹が編纂し,50巻より成る。後集は《長慶集》以後の作品を作者自身が数度にわたって編纂したもので,845年(会昌5)に完成し,25巻から成る。前後集75巻をまとめて《白氏文集》と総称するが,現存するのは71巻である。
→唐詩
執筆者:荒井 健
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772~846
唐後期の詩人。太原(山西省)の人。字は楽天(らくてん)。刑部尚書(けいぶしょうしょ)までのぼったが,民衆的な平易な新詩風をつくり,人民の悲しみ,私生活の喜びを歌った。「新楽府」(しんがふ)「長恨歌」(ちょうごんか)「琵琶行」(びわこう)など長編物語詩が有名。日本文学への影響も大きい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…揚子江デルタ地帯の農業生産力の飛躍的増大,銭塘江流域,安徽省方面の産業の発達,杭州周辺の絹織物生産の開発などが相乗し,宋代に入ると杭州は江南最大の都市に成長した。また唐代の白居易(楽天),北宋の蘇軾(そしよく)(東坡)のように著名な文人知事によって西湖の灌漑水利,運河の整備などがすすめられた。彼らはまた鶴と梅を友とする高逸の詩人として日本にも知られる林逋(りんぽ)(和靖)(967‐1028)らとともに杭州と西湖を詩に詠み,人々の口に伝えられた。…
…これが〈新楽府〉で,杜甫の〈兵車行〉〈麗人行〉などは内容に即して自由に題をつけたもの。とりわけ有名なのは白居易の〈新楽府〉50編で,いずれも社会批判や風刺の意図をもつ。本来民間歌謡の採集が民衆の不満や批判を察知するためのものであったことから,みずからの政治的主張を新楽府に託そうとしたのである。…
…その先頭に立つのは李白で,杜甫らがこれに続く。 安史の乱が引き起こした混乱と人民の苦しみに対する鋭敏な反応はまず杜甫の詩にあらわれたが,社会の不正への怒りと批判は白居易(はつきよい)の〈秦中吟〉や〈新楽府(しんがふ)〉にも見られる。しかし彼の長編物語詩〈長恨歌〉〈琵琶行(びわこう)〉などは小説的構想が読者をひきつける。…
…中国,中唐の白居易の作。〈ちょうこんか〉ともいう。…
…やはり中国における評価の高まりに刺激を受けたのであろう。 中唐(766‐835)の代表的詩人としては韓愈と白居易(846没)をあげねばなるまい。律詩もよくしたが,古体詩に最も特色がある。…
…《遊仙窟》の作者として知られる張鷟(ちようさく),字は文成の《竜筋鳳髄判》4巻(《判決録》ともいう)などは,それである。唐代における判の名手として知られたのは中唐の白居易(楽天)で,《白氏文集》巻49,巻50には,白居易の作になる判が101例集められている。白居易の判は,以後,判の模範として多くの科挙の受験生たちに愛読されたものであった。…
…中国,唐代の白居易の七言詩。88句616字から成る長編。…
…また中唐のころから僧侶の側からも皎然・斉己・貫休などの詩人が出て一般詩人に伍し,この趨勢は宋代にも及んだ。中年から深く仏教に帰依した白居易が,自らの文学の営みを〈狂言綺語〉として自悔し,真実の求道との乖離(かいり)に悩んだことは有名である。 しかし宋代になると,士大夫の間に仏教(主として禅)の浸透が一般化するにつれ,仏教と文学の習合現象は著しく,禅僧の間からさえ文学と禅の相即を説く《文字禅》という詩文集が作られたりした。…
…自己の才をたのみ,狭量であったためと正史ではいう。晩年は白居易と親交を結び,しきりに詩を唱和し,白居易はその詩才を高く評価して〈詩豪〉と呼んだ。〈西塞懐古〉〈金陵五題〉などが代表作として知られる。…
※「白居易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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