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白居易 はくきょいBai Ju-yi

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

白居易
はくきょい
Bai Ju-yi

[生]大暦7(772)
[没]会昌6(846)
中国,中唐の詩人。太原 (山西省) の人。字,楽天。号,香山居士。貞元 16 (800) 年進士に及第。翰林学士,左拾遺などを歴任,元和 10 (815) 年太子賛善大夫のとき罪を得て江州司馬に左遷され,その後地方の刺史や刑部侍郎など中央の官を経て,会昌2 (842) 年刑部尚書として辞任,のち没して尚書右僕射を贈られた。

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デジタル大辞泉の解説

はく‐きょい【白居易】

[772~846]中国、中唐期の詩人。太原(山西省)の人。字(あざな)は楽天。号、香山居士。「新楽府(しんがふ)」など、平易流暢(りゅうちょう)な詩で、もてはやされた。日本の平安文学に影響を与えた「長恨歌(ちょうごんか)」「琵琶行」の詩は特に有名。李白杜甫韓愈とともに「李杜韓白」と並称された。選集に「白氏文集(はくしもんじゅう)」。

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百科事典マイペディアの解説

白居易【はくきょい】

中国,唐代の代表的詩人の一人。太原(山西省)の人。字は楽天で,白楽天とよばれることも多い。号は香山居士。28歳で進士。このころ《長恨歌(ちょうごんか)》を作る。
→関連項目楽府勧学会西湖千載佳句池亭記和漢朗詠集

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世界大百科事典 第2版の解説

はくきょい【白居易 Bái Jū yì】

772‐846
中国,唐の代表的文学者。香山居士と号した。太原(山西省)の人。字により,白楽天とよばれることが多い。家は貧しかったが勉学にはげみ,科挙及第ののち803年(貞元19)に任官した。806年(元和1)厔(ちゆうちつ)県(陝西省)の尉となり,このとき《長恨歌》を作って詩人としての名声を得た。次いで中央政府入りして翰林学士となり,左拾遺に昇進し,当時の天子憲宗に気に入られ,しばしば意見書を呈上,さらに昇進を重ねて太子左賛善大夫に至ったが,815年(元和10)の上奏文が原因で江州(江西省)の司馬に左遷された。

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大辞林 第三版の解説

はくきょい【白居易】

772~846) 中国、中唐の詩人。号は香山居士また酔吟先生、字あざなは楽天。官吏の職にあったが、高級官僚の権力闘争にいや気がさし、晩年は詩と酒と琴を三友とする生活を送った。その詩は平易明快で、「長恨歌ちようごんか」「琵琶行」などは広く民衆に愛され、日本にも早くから伝わって、平安朝文学などに大きな影響を与えた。「秦中吟」「新楽府しんがふ」など、社会や政治の腐敗を批判した社会詩もある。詩文集「白氏文集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

白居易
はくきょい
(772―846)

中国、中唐の詩人。字(あざな)は楽天。本籍は太原(たいげん)(山西省)、生地は新鄭(しんてい)(河南省)。李白(りはく)の死後10年、杜甫(とほ)の没後2年、地方官吏の次男として生まれた。口もきけぬ幼時、すでに「之」と「無」との字を弁別し、5歳のころから作詩を学び、16歳で早くも人を驚かす詩才をひらめかした。当時、内乱が続き、転々として移り、遠く江南を放浪したこともあった。しかしつねに進士への勉学に努め、800年(貞元16)29歳で及第した。ついで皇帝のつかさどる親試に合格し、時代の選ばれた人となった。そのころ『長恨歌(ちょうごんか)』や「林間に酒を暖めて 紅葉を焼く」の詩歌がものされた。やがて37歳、翰林(かんりん)学士、左拾遺(さしゅうい)となり、文学で政治に参加することとなった。ときに儒教的理想主義から若い情熱を傾けて社会の矛盾を鋭く批判する『新楽府(しんがふ)』など、「諷諭詩(ふうゆし)」と名づける一群の制作を続けた。811年(元和6)母の死にあい、退いて下(かけい)で喪に服したが、重ねて幼い娘を失った。ここに、儒教では解決しがたい、人間における死を問題とし、道・仏の教理へ関心を強めた。かくて「感傷詩」や「閑適詩」とよぶ詩歌群がつづられた。3年ののち、太子補導役として長安に復帰したが、815年、宰相暗殺事件に関する上奏を越権行為として責められ、それを契機に、かつて「諷諭詩」で刺激した権貴の反感がよみがえり、ついに人倫にかかわるあらぬ罪名のもとに、地の果てのような江州の司馬に追放された。
 かくて人生の信念が揺らぎ、権威への懐疑に取りつかれ、文学への反省が始まり、ふたたび道教や仏教を回顧することとなり、廬山(ろざん)における東林寺や草堂の生活が続けられた。やがて新しい展望が開け、『琵琶行(びわこう)』をはじめとして、「遺愛寺の鐘は 枕(まくら)を欹(そばだ)てて聴き、香炉峰の雪は 簾(みす)を撥(かか)げて看(み)る」などの詩歌が詠ぜられた。818年忠州刺史を授けられたが、太子の即位(821。穆宗)とともに、長安に召還された。しかし首都では高級官僚が分裂し、激しい権力闘争が始まっていた。822年これを避けて自ら求めて杭州(こうしゅう)刺史に出た。銭塘湖(せんとうこ)堤の修築など行政効果をあげつつも、明媚(めいび)な風光に触発されて制作は続けられた。「風 古木を吹いて 晴天の雨、月 平沙(へいさ)を照して 夏夜の霜」の詩もなった。ときに、早くから文学的知己と許していた元(げんしん)が、近くの越州刺史として赴任したので、唱和が重ねられ、『白氏長慶集』50巻も編集された(824)。翌年、蘇州(そしゅう)刺史に転じたが、まもなく中央に召された。しかし高級官僚の権力闘争がいよいよ厳しさを増すのをみて、829年(太和3)58歳、洛陽(らくよう)への永住を決意した。権力闘争批判の行動である。詩歌でも「蝸牛(かぎゅう)角上 何事をか争う、石火光中 此(こ)の身を寄するに」という。河南府の長官となった一時期もあったが、おおむね名目的な閑職で、「詩と酒と琴」を「三友」とし、「酔吟先生」と号し、悠々自適の日々を送った。この生活のなかで劉禹錫(りゅううしゃく)との文交が深まり、唱和集も巻を重ねた。やがて元などの知友が鬼籍に入るのをみて、にわかに人生の寂寞(せきばく)を感じ、仏教へ傾倒していった。竜門の香山寺を修復しては「香山居士」と称し、詩文を結集しては廬山の東林寺などゆかりの仏寺へ奉納した。制作を「狂言綺語(きご)」と観ずる懺悔(ざんげ)の行為である。842年(会昌2)71歳、刑部尚書の待遇で退官した。やがて竜門の八節石灘(せきだん)の難所を開き、「七老会」を経て、人生の決算として『白氏文集』75巻の全集を手定し、幼時に示した才能を尽くして、846年、75歳の生涯を閉じ、香山寺畔に葬られた。
 この長い一生に、文学はしばしば変容した。若い日の浪漫(ろうまん)主義的傾向は、知的な光を帯びて理想主義的な立場に転じ、社会や政治を批判した。やがて社会のなかの個人をみいだし、個人に即して人間の生き方を探求する文学を形成した。その間、定型の限界的条件の下で、言語機能を駆使する唱和に専念し、「元和体」という時代様式をも創造した。さらに晩年は老荘や釈仏の高い立場から、人間の権力への欲望を風刺した。ただ一貫したのは、文学は人間の生き方を対象とし、生活意識に裏づけられねばならぬという自覚である。ために題材は経験的となり、言語は日常性を帯び、発想は心理の自然に沿い、構成は論理の必然に従い、主題は普遍的となって、「流麗坦易(たんい)」と標徴される文学を創造した。李白の「飄逸(ひょういつ)」、杜甫の「雄渾(ゆうこん)」に対し、唐一代に通じる著しい個性となった。ために在世中から民衆のなかまで流れ、牛追いや馬子にまで口ずさまれた。没後、当代の皇帝宣宗も弔詩を捧(ささ)げ、「玉を綴(つづ)り珠を聯(つら)ぬ 六十年」と詠じ起こし、「浮雲繋(か)けず 名は居易、造化無為 字(あざな)は楽天」とたたえ、文化に貢献したという「文公」を諡(おくりな)した。やがて朝鮮から日本、また越南(えつなん)(ベトナム)など、当時の漢語文化圏で歌い読まれ、流伝の広さは古今未曽有(みぞう)と称せられた。現代においても、その作品は中国はもとより東アジアを通じ、さらには欧米諸国でも高く評価され、読み続けられている。[花房英樹]
『片山哲著『白楽天――大衆詩人』(岩波新書) ▽堤留吉著『白楽天――生活と文学』(1957・敬文社) ▽アーサー・ウェーリー著、花房英樹訳『白楽天』(1959・みすず書房) ▽堤留吉著『白楽天研究』(1962・春秋社) ▽花房英樹著『白居易研究』(1971・世界思想社) ▽平岡武夫著『中国詩文選17 白居易』(1977・筑摩書房)』

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世界大百科事典内の白居易の言及

【杭州】より

揚子江デルタ地帯の農業生産力の飛躍的増大,銭塘江流域,安徽省方面の産業の発達,杭州周辺の絹織物生産の開発などが相乗し,宋代に入ると杭州は江南最大の都市に成長した。また唐代の白居易(楽天),北宋の蘇軾(そしよく)(東坡)のように著名な文人知事によって西湖の灌漑水利,運河の整備などがすすめられた。彼らはまた鶴と梅を友とする高逸の詩人として日本にも知られる林逋(りんぽ)(和靖)(967‐1028)らとともに杭州と西湖を詩に詠み,人々の口に伝えられた。…

【新楽府】より

…これが〈新楽府〉で,杜甫の〈兵車行〉〈麗人行〉などは内容に即して自由に題をつけたもの。とりわけ有名なのは白居易の〈新楽府〉50編で,いずれも社会批判や風刺の意図をもつ。本来民間歌謡の採集が民衆の不満や批判を察知するためのものであったことから,みずからの政治的主張を新楽府に託そうとしたのである。…

【中国文学】より

…その先頭に立つのは李白で,杜甫らがこれに続く。 安史の乱が引き起こした混乱と人民の苦しみに対する鋭敏な反応はまず杜甫の詩にあらわれたが,社会の不正への怒りと批判は白居易(はつきよい)の〈秦中吟〉や〈新楽府(しんがふ)〉にも見られる。しかし彼の長編物語詩〈長恨歌〉〈琵琶行(びわこう)〉などは小説的構想が読者をひきつける。…

【長恨歌】より

…中国,中唐の白居易の作。〈ちょうこんか〉ともいう。…

【唐詩】より

…やはり中国における評価の高まりに刺激を受けたのであろう。 中唐(766‐835)の代表的詩人としては韓愈と白居易(846没)をあげねばなるまい。律詩もよくしたが,古体詩に最も特色がある。…

【判】より

…《遊仙窟》の作者として知られる張鷟(ちようさく),字は文成の《竜筋鳳髄判》4巻(《判決録》ともいう)などは,それである。唐代における判の名手として知られたのは中唐の白居易(楽天)で,《白氏文集》巻49,巻50には,白居易の作になる判が101例集められている。白居易の判は,以後,判の模範として多くの科挙の受験生たちに愛読されたものであった。…

【琵琶行】より

…中国,唐代の白居易の七言詩。88句616字から成る長編。…

【仏教文学】より

…また中唐のころから僧侶の側からも皎然・斉己・貫休などの詩人が出て一般詩人に伍し,この趨勢は宋代にも及んだ。中年から深く仏教に帰依した白居易が,自らの文学の営みを〈狂言綺語〉として自悔し,真実の求道との乖離(かいり)に悩んだことは有名である。 しかし宋代になると,士大夫の間に仏教(主として禅)の浸透が一般化するにつれ,仏教と文学の習合現象は著しく,禅僧の間からさえ文学と禅の相即を説く《文字禅》という詩文集が作られたりした。…

【劉禹錫】より

…自己の才をたのみ,狭量であったためと正史ではいう。晩年は白居易と親交を結び,しきりに詩を唱和し,白居易はその詩才を高く評価して〈詩豪〉と呼んだ。〈西塞懐古〉〈金陵五題〉などが代表作として知られる。…

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