教行寺(読み)きようぎようじ

日本歴史地名大系 「教行寺」の解説

教行寺
きようぎようじ

[現在地名]西宮市塩瀬町名塩

武庫むこ川の支流名塩なじお川中流左岸にある浄土真宗本願寺派寺院本尊阿弥陀如来。以下、教行寺縁起(寺蔵)によれば、文明七年(一四七五)越前吉崎よしさき(現福井県金津町)を退出した本願寺八世蓮如が、若狭小浜おばま(現同県小浜市)摂津広根ひろね(現猪名川町)を経て河内出口でぐち(現大阪府枚方市)に至る途次に巡錫した「名塩中山の草舎」に始まる。蓮如は出口滞在中、摂津富田とんだ(現同府高槻市)に教行寺を開創し、第二〇子(縁起は一九子)の蓮芸を住持とするが、名塩村民の懇請で中山の道場を蓮芸の兼帯としたことにより、法主一族を住持とする一家衆寺院となった。


教行寺
きようぎようじ

[現在地名]高槻市富田町六丁目

真宗大谷派、山号安静山、本尊阿弥陀仏。寺伝によると、蓮如が文正元年(一四六六)細川勝元から三万余坪の寄進を受け、文明一三年(一四八一)一宇を造立した。当寺で書写した「教行信証」にちなんで教行寺と命名、自らは「信証院」と名乗ったという。「大谷嫡流実記」には「摂州富田教行寺ハ、蓮如上人寛正六年大谷破却後文正元年富田ニ敷地ヲ開発シ置、後年文明ノ末年、洛東山科野村ノ本坊御建立ノ後、富田ノ坊舎建立アリテ、明応七年息男蓮芸ニ附属シ給フ処ナリ」とある。実悟撰の日野一流系図によると、教行寺は蓮芸―実誓―証誓と父子相承し、蓮芸の姉寿尊尼も当寺で死去している。蓮如が当地に道場を草創したとの確かな史料はないが、晩年の蓮如はしばしば富田とんだを訪れている(空善記)


教行寺
きようぎようじ

[現在地名]広陵町大字萱野

萱野かやのの南部、大字みなみとの境にある。安静山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。箸尾はしお教行寺ともいう。文明年間(一四六九―八七)蓮如が摂津国島上しまかみ富田とんだ荘に建立したのに始まると伝え、大和に進出したのは中世土豪箸尾氏と百済くだら願成がんじよう(現広陵町)抗争の調停を通じてだという。箸尾教行寺由緒(寺蔵)によると百済荘内東迎田ひがしむかいだ(字迎田が現存する)の願成寺祐淳が天文一揆に参加して箸尾氏と抗争、捕らわれ成敗されるところを、摂津富田の教行寺(現大阪府高槻市)の蓮芸が、佐味田さみた(現奈良県河合町)教行寺の寺山を盾に首銭をまかなったという。


教行寺
きようぎようじ

[現在地名]河合町大字佐味田小字南垣内

佐味田さみた集落の西端、丘上に位置する。真宗大谷派。山号は安静山。本尊阿弥陀如来。文禄四年(一五九五)九月二六日の屋敷書出状(寺蔵)に、「佐味田教行寺」の被官百姓九人の屋敷地が記される。享保九年(一七二四)の明細帳(勝井家文書)によれば、箸尾はしお教行寺(現奈良県広陵町)の掛所で、天正八年(一五八〇)教行寺第三世証誓の開基とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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