大正初期の政党。第三次桂(かつら)太郎内閣下、憲政擁護運動の高揚をみた桂首相は、その対策とし1913年(大正2)1月20日に新政党結成を発表した。いわば窮余の一策であるが、内紛を続けていた国民党は、21日、改革派の大石正巳(まさみ)、河野広中(こうのひろなか)、島田三郎、箕浦勝人(みのうらかつんど)、武富時敏(たけとみときとし)ら五領袖(りょうしゅう)以下過半数が脱党して参加、政友会は数名の呼応者を除名したので、桂の政党切り崩しの目算は外れた。さらに大浦兼武(おおうらかねたけ)の統率下の中央倶楽部(くらぶ)と後藤新平、仲小路廉(なかしょうじれん)など桂派官僚が加わったが、山県有朋(やまがたありとも)系貴族院議員は首相在任間の結党に反対して不参加を申し合わせた。桂は創立委員長となって2月7日、新党の宣言を発表したが結党に至らず(11日内閣総辞職)、4月桂の発病後は大石、大浦、加藤高明(たかあき)、後藤、河野を常務委員とした。10月10日桂死去。以後結党準備が進められたが、後藤、仲小路は脱党し、12月23日ようやく結党式をあげ、加藤を総裁、大浦、大石、河野を総務とした。所属代議士93名。その主張は、桂の決めた綱領を踏襲し、皇室中心主義、開国進取の皇謨(こうぼ)翼賛、憲法恪守(かくしゅ)、教育普及、社会改良、農工商の発展、地方自治の粛正など多方面にわたり、当面急務の政策として軍備充実、対華政策、財政整理など14項目を掲げた。当初は不評判であったが、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の与党となり(加藤外相、大浦農商務相、のち内相、若槻(わかつき)礼次郎蔵相)、総選挙で第一党となった。いわゆる大浦事件で大浦は政界引退、内閣改造にあたって加藤、若槻は留任せず、党は閣外協力を約した。16年10月中正会、公友倶楽部と合して憲政会を創立した。なお、従来からあった同志会は名称が紛らわしいので亦楽(えきらく)会と改称。
[山本四郎]
『徳富蘇峰著『公爵桂太郎伝』 坤(1915・同伝刊行会/復刻版・1967・原書房)』▽『伊藤正徳著『加藤高明』上下(1929・同伝編纂委員会/復刻版・1970・原書房)』▽『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『山本四郎著『日本政党史』 下(教育社歴史新書)』
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大正初期の政党。第3次桂内閣において憲政擁護運動に直面した桂太郎は,1913年(大正2)1月に新党計画を公表し,みずから新党創立委員長となって2月7日立憲同志会宣言を発表。10月に桂が死去したため,以後加藤高明を中心として結党準備が進められ,12月23日加藤を総理に中央倶楽部や立憲国民党の約半数,桂系官僚などを糾合し,所属代議士93人で正式発足。第1次山本内閣の野党立憲国民党・中正会と非政友三派を形成,シーメンス事件を追及した。次の第2次大隈内閣では与党となり,15年3月の第12回総選挙で153人を当選させて第1党となる。16年10月中正会・公友倶楽部と合同して憲政会を結成。
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…この行動は非立憲的であるとして護憲運動が全国に広がった。苦境に立った桂は政友会をきりくずし立憲同志会の組織を公表したが,結局13年2月民衆運動の革命化をおそれ総辞職した。その後政党組織化に力を尽くしたが,病をえて同年10月没した。…
…大正初年の政党,立憲同志会の通称。日露戦争後政友会と妥協し,西園寺公望と交代で内閣を組織してきた桂太郎は,その第2次内閣(1908‐11)のときから,自分の意のままに動かせる政党をつくることを意図してきた。…
※「立憲同志会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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