改訂新版 世界大百科事典 「親分子分」の意味・わかりやすい解説
親分・子分 (おやぶんこぶん)
親方・子方と同義。今日ではヤクザや政界の派閥など闇の世界のそれに限られたもののように連想されがちであるが,この民俗語は社会学,民俗学,社会人類学では日本社会の構造を解明するうえで重要な術語のひとつになっている。ウミノオヤ,ウミノコという言葉があること自体,親や子以外の血縁・非血縁を問わない人々を,オヤがコとして統率し庇護する生活組織の存在したことを示している。日本の古代社会では政治的,宗教的,社会的な意味で,ウジ(氏)やウジ連合共通の祖霊としてまつられたミオヤには御祖と当て字されもした。近世,近代にわたる日本の社会で,オヤとコという民俗語の示す生活組織は実に多様であって,漢字でそれに当てた親子という関係と,その擬制としての親分・子分として解するだけでは,近世日本の儒教や近代日本の政治イデオロギーないし欧米理論中心主義の学界風潮に毒されない,より深い日本文化=社会の実証的研究は達成されない。この観点が,柳田国男や有賀喜左衛門の,創造性に富んだ学風による多大な研究成果を生んだ。柳田や有賀は中世以来使われるようになった親分・子分という言葉以前からの民俗語,オヤ・コ(親子と親分・子分を内包し一貫する統率従属・庇護依存の人格的社会関係)の意味を,第2次大戦以前の村落社会の生活を直接対象とする調査研究を通じて研究した。
同族と親分・子分
ウミノオヤ(出生における親),ヤシナイオヤ(養親)はともにオヤであり,子や養取adoptionされた〈養子〉だけがコだったのではない。生みのオヤが有力な家の家長やその妻やアトトリにオヤとなってもらって,無力な家に生まれた子がそのコ(子分)となる社会的事実は,ムラやマチの慣習や儀礼におけるオヤコナリ(親子成り)の仕方に見いだされた。家の内では家長と家の成員の関係としてのオヤコに,子方・子分・子供衆(商家の住込み子飼いの丁稚(でつち))もまた子と同様にコとして含まれる点に注目すべきで,家の拡大展開による本家・分家(親族分家と非親族分家=奉公人分家,別家ともいう)の関係においてもこの原則はあった。本家・分家間の同族の関係は,明治の民法以来,法律上本家・分家とされたものとは違って,親子や養親・養子,また嫁・婿の範囲に限定されず,同族関係とオヤコ関係(親分・子分関係)が合致していたのが原型であり,のちに両者が分化された。家の系統もまた,そのようなものと日本人は考えて生活してきた。非血縁のオヤコ関係を擬制とみなす近代知識人の考え方は,原型が崩れてのち,欧米文化中心主義の考え方が流入して以後生じた解釈にすぎず,また,中国の家や宗族の制度を標準視した近世儒学風の解釈にもさかのぼる曲解である。
親分・子分の関係
同一家系であろうと,他家系であろうと,その別なく,政治的・経済的に劣勢な者が有力な者にオヤ(親分=親方)となってもらい,そのコ(子分=子方)にしてもらって,従属と引換えに庇護を受けるという政治的・経済的な社会関係が,本家・分家の〈家の出自〉による家系(これにも,没落したり絶家したりした本家の代りに,他家系の有力な本家に自家の本家になってもらう,タノミホンケの場合が含まれていた)とずれた形で諸個人のあいだの関係として現れるのは近世末や近代のことである。近代には親分・子分(親方・子方)はもっぱら利害関心にもとづく個人的な対人関係をさすようになり,親分はヤクザや政党の派閥を,親方は職人のそれをだけさす語であるかのように都会では思われてきたが,ムラ社会では,近代にもなお親分・子分,親方・子方という言葉が正常な人格的対人関係をさし,この種の社会関係はムラ人らの生活を支えていた。子分(子方)となった人は,生みの親がなくても,また無力であっても,有力なオヤ(親分,親方)をもつことによって,その間柄に支えられて生活をきりひらくことができた。親分(親方)のほうは彼らの生活を庇護する社会的責任を負い,単に子分(子方)を従属させ支配するというだけのものではなかった。家系上の家と家の関係にだけでなく,個人と個人のあいだの親分・子分関係をも,それに加えてもつことは,そのような本家親方をいっそう有力なものとしたから,劣勢な家や個々人のために親分となり,彼らに保護を与え面倒をみることは分家や子方にだけ有利なわけではなかった。そうした利益だけのために親分が子分を受け入れたのではなく,親方本家としての社会的な誇り,親分にと頼まれた者の心意気として,親分・子分の関係が結ばれた。社会福祉制度の完備しないうちは,家や同族やこの親分・子分の制度が,劣弱な立場の人々が生き抜いていくことを可能にする機能を果たしていたのである。
他のムラから移り住んだばかりの人や家が,そのムラのなかでヨソモノとして疑念の対象となったり,いじめられ,さげすまれたりするおそれがあることも,そのムラで有力な家や人を親分とすることによって救われた。マチの生活でも,それは同様であった。また,対等な本家どうしや,親戚どうしでも,相互に親分・子分の関係を結び合うこともみられた。これは双方の社会的な足場を強め合う効果をもち,双方の社会的な関係を安定強化する効果を示した。
その社会で信用のある人を親分とし,その子分となることは,その社会のなかで,しっかりした社会的な足場をもち,有利な社会的位置づけを獲得することとなった。ムラ人が親分を得てその子分となる機会は,人生の通過儀礼の節目ごとに見いだされえた。出生時に頼む〈取上親〉〈名付親〉,また病弱な子を儀礼上いったん捨て子する形をとり,あらかじめ頼んでおいた人に〈拾い親〉になってもらうことによって健康な子になると考える風習もあったが,最も一般的には,成人するとき男は烏帽子親(えぼしおや),女は鉄漿親(かねおや)を頼み,また結婚するときに仲人親を頼むというように,仮親に依存することであった。ムラや生まれ育ったマチを離れ,生家を離れて他のマチの商家や職人の家の家長を親方とすることは,子飼い住込みの丁稚(弟子)奉公人となるときに,その家の子方となることを意味した。生家を去って主家のコとなるのであるから,家業経営の親方である主家の家長は彼らに新しい名,丁稚としての名を与えた。丁稚名は成人すると手代名に変えられ,暖簾(のれん)分けを受けて奉公人分家(関西で〈別家〉と呼ばれた)となっても手代名やその変形で名のり,通勤別家か自営の店持別家の初代家長となった。彼らの結婚は新夫婦が主家を親方と確定して以後商人社会に位置づけられる機会であったから,配偶者の一方の親を親方とする生みの子の結婚(嫁取婚,聟(婿)取婚)とは区別して,有賀喜左衛門が親方取婚と呼んだムラの場合と同様であった。
ラテン文化圏のコンパドラスゴ,カトリック一般の洗礼親はこれに似るが,親分・子分関係は,とくに日本社会では会社内のそれや会社間の親会社・子会社関係までも含めていっそう広範に多様な形で見いだされる。
→家 →親子
執筆者:中野 卓
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報