新堂村
しんどむら
[現在地名]富田林市新堂・清水町・若松町一―五丁目・若松町西一―三丁目・緑ヶ丘町・富田林町・昭和町一―二丁目・富美ヶ丘町・中野町一―二丁目・中野町西一丁目・若松町東一―三丁目・南旭ヶ丘町
石川郡に属し、富田林村の北にあり、西は羽曳野丘陵、東は石川沿岸を占める。南北に東高野街道が通り、北西部の平尾峠を越えて富田林街道が南東方向に抜ける。集落は北新堂と南新堂に分れ、南新堂は古くは富田といい、「河内志」に属邑一とあるのはこの地という(大阪府全志)。慶長一三年(一六〇八)の検地高一千七〇一石余・反別一一四町七反余(文政一一年「村明細帳」田守家文書)。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]蒲生町合戸
下南村の南東、日野川右岸の平地に位置する。「輿地志略」に新生村とみえるのは当村にあたるか。江戸時代の領主の変遷は下南村に同じ。慶長七年(一六〇二)の検地帳(合戸共有文書)では「蒲生上郡市子村内新堂村」とみえ、高二六五石余、反別は田方三二町八反余(うち上田二〇町七反余)・畠屋敷一町一反余。寛永石高帳・正保郷帳・慶安二年書上でも下南村を含んで高付される。延宝七年(一六七九)の検地帳(合戸共有文書)では高二九〇石余、反別は田一九町二反余・畑屋敷一町四反余。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]松原市新堂一―五丁目・上田八丁目・高見の里四―六丁目・岡二―三丁目・柴垣一―二丁目・西大塚二丁目
近世に松原村を構成した一村で上田村の南、松原村の中部に位置する。松原村の南西部を占める岡村に清堂池があり、王仁がここに聖堂を建てたという伝説がある。清堂を聖堂と書くこともあり、また清堂を「しんどう」と読み新堂となったという説もある。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]橿原市西新堂町
寺川と米川の合流地西に立地。南は新口村。近世の十市郡には新堂村が二村あったが、当村は明治一六年(一八八三)一月に西新堂村と改称。もう一村は現桜井市大字東新堂となっている。当村は文禄四年(一五九五)の検地の結果、秋篠後室(豊臣秀長後室)の領地となったが、同年の朱印状写(県立奈良図書館蔵)は次のとおりである。
<資料は省略されています>
こののち関ヶ原合戦から現奈良市の興福院(弘文院)の領地であったらしい(大和名勝志)が、慶長郷帳・元和郷帳からは脱落している。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]伊賀町新堂
楯岡村の西に位置し、集落は村の南部にあり、北部は丘陵で樹枝状谷が発達する。村の西部百々谷は天平二〇年(七四八)の小治田藤麻呂解(東南院文書)に記す阿拝郡柘殖郷条里坪付の八条五里五に「桃原中西田」、同四里三二に「桃原南西田」とある「桃原」と関連すると考えられる。
元禄六年(一六九三)新検を改めている。本高七九五・七三石、平高一〇三〇・〇六石。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]有田市新堂
有田川の北側、長峰山脈南麓の小渓谷に集落がある。東は山田原村に続き、西は箕島村。「続風土記」によれば、村は観音堂のある所を中心集落とし、東に石井谷、西に石津の集落があり、観音堂はもと古江見寺六坊の一、観音寺の後身で、同寺が廃されてのち当地に移して新しく堂を建てたが、それより地名が起こったという。慶長検地高目録によれば村高五六二石余。宮原組に属し、家数九六、人数四六七(続風土記)。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]桜井市大字東新堂
大福村東北に所在。西大寺田園目録に「十市郡東郷廿四条三里卅坪一段字新堂ノクホ」とあるのは当村西方に該当。建久八年(一一九七)の僧善兼田地売券案(東大寺文書)に「大仏供ミソノヘ」(端裏書)、「字西溝部 在大和国城上郡廿二条二里廿六坪之内」、永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「大仏供字中ノ町(中略)在大和国十市郡東郷廿四条六里十二坪」とみえ、小字西ミゾノエ・中ノ町が残る。
文禄四年(一五九五)の検地の村高は六六三・九三石。段別四四町二段六畝一歩。検地奉行は長束直吉。慶長郷帳では五条二見藩(松倉重政)領一八二・八六石、旗本多賀常則領五四・三石と幕府領(代官角南重勝)四二六・七七石の相給。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]五個荘町新堂
北町屋村の東にある。村内には正善寺・浄土林・庵ノ後など仏寺にちなんだ字名がみえ、村名も新立寺院に由来すると思われるが、詳細は不明。寛永石高帳に村名がみえ、高四五二石余。領主の変遷は中村と同じ。慶応四年(一八六八)の年貢減額願(新堂区有文書)では反別二八町七反余。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数六三・人数三六〇(男一七三・女一八六・寺社方男一)。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]今立町新堂
行司ヶ岳東麓にあり、鞍谷川と服部川の合流点に位置し、土地は概して肥沃であった。南は北中津山村、北は川島村(現鯖江市)と接する。明応二年(一四九三)の真宗寺寄進地目録(「鯖江藩寺社改牒」所収)に「新堂之道円」との人名がみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高四九二・五四八石。正保郷帳によると田方三二一石余・畠方一七一石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となったが、元禄五年(一六九二)以降一時土岐頼殷領であった。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]橿原市新堂町
住吉川東岸に位置。東は雲梯村。西大寺田園目録に「葛下郡廿七条一里廿八坪内七段字フナハシ。コミヤノ東畔」とある「コミヤ東」は当村小字小宮東に該当。葛下郡に属した時期もあった。
文禄四年(一五九五)の検地による村高五四六・二六六石。検地奉行は御牧景則。江戸初期は高取藩(本多俊政)領。のち貞享四年(一六八七)藩主植村家貞の遺領相続の際、弟正澄に村高のうち三一九・〇八四石を、弟政明に九八・一〇六石を分知。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]園部町新堂
熊崎村の東にあり、北西に長く延びる。北は志和賀村(現日吉町)、東は岡田村、南は瓜生野村。北西部は山地で集落は南東部山麓に連なる。園部藩領。幕末の家数は三〇、人口一三〇(「口丹波風土記」所引園部藩記録)。
集落西の谷奥にある新堂池を馬蹄形にとり囲み、一一基の新堂池古墳群がある。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]山東町新堂
矢名瀬村の北東方にある。山陰道が通る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一七一石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一七二石余。但馬国高附郡訳手控(岡田家文書)では新当邑と記される。三社神社が鎮座、地元では荒神さんとよぶ。村内の古茂池庵庭園は但馬・丹波・丹後地方で小児疳虫の灸(古茂池の灸)として一般に知られた永田家の庭園で、鎌倉中期の作庭として紹介されたこともあるが、近年の研究では寛政年間(一七八九―一八〇一)岩崎清光の作庭かともいう。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]草津市新堂町
駒井沢村の西に位置。元亀三年(一五七二)新堂惣代は一向一揆に内通しない旨の起請文を出している(→草津市)。寛永石高帳では高三一六石余、旗本渡辺領。慶安高辻帳では田三一一石余・畑四石余。元禄郷帳では同渡辺三氏領。
新堂村
しんどうむら
[現在地名]豊岡市新堂
滝村の西に位置し、大浜川が流れる。江戸時代の領主の変遷は栃江村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高九七石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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