新山城跡(読み)にいやまじようあと

日本歴史地名大系 「新山城跡」の解説

新山城跡
にいやまじようあと

[現在地名]日南市星倉

岩崎いわさき稲荷神社東方の山に築かれた中世の平山城飫肥おび城第一の出城といわれたが、一方で同城攻撃の拠点ともなった(「日向地誌」など)。城跡付近には本丸ほんまる本丸東平ほんまるひがしたいら二の丸にのまるなどの地名が残る。なお史料に井手・井手平・井手尾などともみえるいで砦は当城南西の栗野平くりのびら付近にあったと思われる。

文明一六年(一四八四)一一月末、櫛間くしま(串間)の領主伊作久逸に救援を頼まれた伊東祐国は新納忠続が領有する飫肥に侵攻し、これを迎え撃った忠続の勢を富嶺(飛ヶ峯)で破って当城に退けた。勢いに乗った伊東勢は飫肥城をうかがい、当城を支えきれなくなった忠続は飫肥城に逃込んだ。このため祐国は当地と富嶺に陣営を置いて飫肥城を包囲した(「島津忠昌譜」旧記雑録、「文明記」など)。祐国は翌一七年にも飫肥に出陣し、島津氏は救援の兵を酒谷さかたにのメクリ(巡り尾砦)に置いた。六月二一日島津方の大軍田間たま河上長吉ながよし(永吉)・野首などに布陣していた伊東勢に襲いかかり、祐国も自ら楠原くすばるから田間に出馬した。ところが「井手ノ上ノ陣衆」が横合いに攻めかかってきたため、島津の大軍に取囲まれてしまい、祐国をはじめとして長倉修理亮ら六〇〇余人が討死をしたという(日向記)。永正一七年(一五二〇)八月八日には伊東勢が「井手之平」に陣取っている(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書)


新山城跡
しんやまじようあと

[現在地名]松江市法吉町・西持田町

しん(新山、二五六・一メートル)の峻険な頂に構築された戦国期の山城。南方白鹿しらが城がある。築城時期は不明だが、歴史上重要な意味をもって登場するのは戦国期後半毛利氏が尼子氏討滅のため出雲に進出して以後である。「雲陽誌」に真山城跡とみえ、永禄六年(一五六三)毛利元就による白鹿城攻めのとき吉川元春が真山を向城として陣を布いたという。白鹿城の落城後、毛利氏は白鹿城を破却し、代わって新山城を整備して多賀元信を入城させたといわれる。同一二年六月出雲を奪還しようと島根半島に上陸した尼子勝久は直ちに多賀氏を追放して新山城を占拠(「吉田物語」など)、元亀二年(一五七一)八月に勝久が出雲を退去するまで新山城は尼子軍の本拠として重要な役割を果した。新山が明確な史料に登場するのは永禄一二年と推定される七月二〇日の小早川隆景書状(閥閲録、以下断りのない限り同書)で、「末次土居新山衆執誘相抱趣候」とみえ、これ以前に新山城を占拠した尼子軍(新山衆)がさらに進んで末次すえつぐ城を攻め落している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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