刑法学者。岡山市生れ。1915年京都帝大法科卒。同年司法省に入り判事を務めたあと,18年京大助教授,24年教授となり刑法を担当。この間1922年から24年までドイツに留学,M.E.マイヤーなどに師事。《刑法総論》《刑法各論》において罪刑法定主義を強調する客観主義的立場と,犯罪の根源は社会にあるという思想を結びつけた刑法理論を主張した。1932年中央大学における〈《トルストイの《復活》に現はれた刑罰思想〉と題する講演や著書《刑法読本》などが右翼団体の攻撃を受け,33年文部省により休職処分を受けた。京大法学部はこれに抵抗し,7教授が辞職するいわゆる滝川事件(京大事件)が生じた。京大辞職後は弁護士を開業するかたわら,《犯罪論序説》によって罪刑法定主義を基礎とする刑法理論を展開した。戦後京大に復職,法学部長,総長を歴任し,55年学生運動と対立して注目を集めた。1951年日本刑法学会の初代理事長,53年日本学士院会員となった。著書にはこのほか《刑法講話》(1951)など。
執筆者:長尾 龍一
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刑法学者。「たきがわ~」とも読む。岡山県に生まれる。京都帝国大学卒業後、いったん京都地方裁判所判事となったが、1918年(大正7)京都帝国大学法科大学助教授に転官し、刑事法学を担当。2年余のドイツ留学ののち24年同教授となる。33年(昭和8)いわゆる滝川事件(京大事件)が起こり、同年5月26日に政府から休職を命ぜられ、終戦後まで刑事専門の弁護士として活躍。46年(昭和21)ふたたび京都帝国大学教授に復職し、以後、同大学法学部長・総長を歴任。その間、日本刑法学会理事長、日本学士院会員となる。その学風は古典主義的な応報刑論、客観主義刑法理論で、個人の人権保障を強調するところから、日本に構成要件論を導入したことで有名。
[西原春夫]
『滝川幸辰著『激流』(1963・河出書房新社)』▽『団藤重光他編『滝川幸辰 刑法著作集』全五巻(1981・世界思想社)』
大正・昭和期の刑法学者 京都大学総長。
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…牧野は,目的刑論,とくに教育刑論と主観主義犯罪論を強く主張した。これに対して,旧派を代表したのは,小野清一郎と滝川幸辰(ゆきとき)であった。小野と滝川は,応報刑論と客観主義犯罪論をとった点では同様であったが,その基礎と内容には異質のものがあった。…
…1933年京都帝国大学教授滝川幸辰(ゆきとき)と京都帝国大学に対する思想および学問の自由,大学の自治(教授会の自治)の弾圧事件。京大事件ともいう。…
※「滝川幸辰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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