智積院(読み)チシャクイン

デジタル大辞泉 「智積院」の意味・読み・例文・類語

ちしゃく‐いん〔‐ヰン〕【智積院】

京都市東山区にある真言宗智山派総本山。山号は五百仏頂山。南北朝時代、紀州(和歌山県)根来山大伝法院の一院として開かれたが、豊臣秀吉の兵によって焼失。慶長5年(1600)難を逃れた玄宥が徳川家康から寺地を得て中興。大書院桃山時代障壁画の傑作が残る。

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精選版 日本国語大辞典 「智積院」の意味・読み・例文・類語

ちしゃく‐いん‥ヰン【智積院】

  1. 京都市東山区東瓦町にある真言宗智山派の総本山。山号は五百仏頂山。仏頭山、一乗山とも号する。もと紀伊国(和歌山県)根来(ねごろ)の大伝法院の一院であったが、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の兵火により焼失。慶長五年(一六〇〇)徳川家康が現在地に再興。所蔵する「松に草花図」「桜楓図」「松に梅図」など二五面の襖(ふすま)絵や「松に草花図」屏風(びょうぶ)張即之筆の金剛経が国宝に指定されている。

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日本歴史地名大系 「智積院」の解説

智積院
ちしやくいん

[現在地名]東山区東瓦町

東大路ひがしおおじ通と七条通の交差点の東側一帯に広大な地域を占め、阿弥陀あみだヶ峰山麓に連なる。真言宗智山派総本山。山号は五百仏頂山、本尊大日如来(坐像)。正式には総本山智積院と号する。付属の智山ちざん学院では末寺の学生僧に対する修学が行われる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔根来寺再興〕

智積院は紀州根来ねごろ(一乗山五百仏根来寺、現和歌山県岩出町)の再興であり、起源は正応元年(一二八八)までさかのぼるが、現在の智積院は豊国とよくに神社の坊舎の一部と祥雲しよううん寺を基礎として出発した。ちなみに祥雲寺は「雍州府志」に「豊臣秀吉公之幼子、祥雲院殿之墓所」とあり、夭逝した豊臣秀吉の長男棄君(鶴松)の冥福を祈って創建された。棄君の死後まもない天正一九年(一五九一)八月、前田玄以の奉行で着工、文禄二年(一五九三)には棄君の三回忌が同寺で営まれている。「正法山誌」に「請南化和尚、住持焉」とあるように棄君の養育係、石川豊前守光重の勧めで京都妙心寺の南化玄興が初代となった。平成四年(一九九二)祥雲寺客殿の遺構が発掘された。

秀吉の根来攻めで高雄神護たかおじんご(現京都市右京区)へ逃れていた智積院尭性(玄宥)は、根来寺再興を秀吉没年の慶長三年(一五九八)に徳川家康に願出て、京都北野に寺地を与えられた。智積院文書に、

<資料は省略されています>

と記している。慶長五年「於豊国三ケ所之坊舎(智積院文書)とあるように阿弥陀ヶ峰豊国社の坊舎一部が与えられ、同七年七月二四日には、家康の命で豊国社御修理料のうちから二〇〇石が祈祷料として寄進された(舜旧記)。豊国社から割譲された坊舎の地は現在の智積院境内の東と南の部分と考えられている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「智積院」の意味・わかりやすい解説

智積院
ちしゃくいん

京都市東山区東瓦(ひがしかわら)町にある真言(しんごん)宗智山派の総本山。五百仏頂山(ぶっちょうざん)と号する。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。智積院はもと紀州(和歌山県)大伝法院(根来寺(ねごろじ))の一院であったが、1585年(天正13)に豊臣(とよとみ)秀吉の兵により焼失。学頭職(しき)であった玄宥(げんゆう)は難を逃れて京都の北野に布教していたとき徳川家康に根来寺再興を願い出、1600年(慶長5)豊国(とよくに)社の坊舎の一部と寺領200石を与えられた。その後さらに、秀吉が愛児棄丸(すてまる)の菩提(ぼだい)を弔うために建てた祥雲寺を与えられて、玄宥は智積院を再興、中興第1世とされる。以来、諸堂塔がしだいに建立され、多くの優れた学匠が集まった。ことに第7世運敞(うんしょう)は学徳ともに高く、多くの学徒を教導してその門下3000といわれ、また諸堂を造営して寺門が繁栄した。1682年(天和2)金堂、方丈などを焼失したが、第8世信盛(しんせい)は諸堂を復興し、第9世宥鑁(ゆうばん)は伝法大会を再興し、第10世専戒(せんかい)は金堂を再建した。また、第11世覚眼(かくがん)は智山能化(のうけ)として初めて大僧正(だいそうじょう)に任ぜられ、第22世動潮(どうちょう)は講学伝授に努めて智山第一の事相家といわれた。第32世海応(かいおう)は倶舎(くしゃ)学に通じ、第37世信海(しんかい)、第39世隆栄(りゅうえい)も倶舎学の講学に努め、その学門の伝統は智山の性相(しょうそう)学として高く評価された。明治初年に勧学院が炎上し、学寮も荒廃したが、1872年(明治5)豊山長谷寺(ぶざんはせでら)(奈良県)とともに新義真言宗総本山となった。1885年、豊山とともに真言宗新義派を称したが、1900年(明治33)豊山派と分離して智山派を称した。

[勝又俊教]

寺宝

1682年、金堂を焼失、また1947年(昭和22)に宸殿(しんでん)から出火して障壁画16面を焼失したが、いまも豪放華麗な桃山時代の襖絵(ふすまえ)「松に草花図」「桜楓図」「松に梅図」など25面がある。これらは長谷川等伯(はせがわとうはく)はじめ一門の者が描いたとみられ、一括して国宝に指定されている。そのほか、「松に草花図」屏風(びょうぶ)、『金剛経(こんごうきょう)』(中国宋(そう)代、張即之(ちょうそくし)筆)などの国宝、絹本着色「孔雀明王(くじゃくみょうおう)像」、絹本墨画「滝図」などの国重要文化財を蔵する。書院前の庭園は国指定名勝。

[勝又俊教]

『山根有三著『智積院』(1964・中央公論美術出版)』『水尾比呂志著「智積院」(『障壁画全集 第1巻』1966・美術出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「智積院」の意味・わかりやすい解説

智積院 (ちしゃくいん)

京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。五百仏頂山と号する。当寺は新義真言宗の拠点紀州根来(ねごろ)寺を再興した寺である。すなわち,根来寺は1585年(天正13)豊臣秀吉により全山が焼討ちにあった。根来大伝法院内学頭坊の能化(のうげ)(住持)だった玄宥は,根来再興を徳川家康に願い出で,秀吉没後の1600年(慶長5),家康から豊国社の坊舎の一部と寺領200石を与えられ,現在地に再興した。これが智積院であり,玄宥は同院中興とされる。その後も江戸幕府の保護は厚く,豊臣家滅亡後の15年(元和1)には豊国社の多くの堂舎や資財,さらに秀吉が夭逝した長子棄丸(すてまる)の冥福のために建立した臨済宗祥雲寺の堂舎を与えられ,また20年には寺領も500石に加増され,智山派総本山としての寺基が確定した。こうして,江戸時代の当寺は,庶民の信仰を集める寺ではなく,新義真言宗の学問の中心となった。諸堂のほか多くの学寮が建てられ,代々すぐれた学匠が能化となり,全国から所化僧(学徒)が雲集した。とくに盛時であった7世能化の運敞の代には門下3000人と称されたほどである。なお中興時点の諸堂は1682年(天和2)に炎上,幕府は東福門院の諸旧殿を移建して復興にのりだし,85年(貞享2)壮大な伽藍を完成したが,幕末に至って学寮などが土佐藩の屯所となるに及んで,講学もしだいに衰えた。

 維新後,1869年(明治2)教学の中心だった勧学院が,82年金堂(本堂)が焼失し,また上知令で境内地が減少,さらに1947年には客殿,宸殿が全焼,大書院が半焼するなど,災害が続いた。伝長谷川等伯筆《桜楓図》はじめ有名な障屛画25面(国宝)は,これら火災時に救出されたものである。現在の建物のうち,惣門と庫裏,昭和の火災で半焼したあと復元された大書院は東福門院の旧殿と考えられている。弘法大師像を安置する大師堂は,1789年(寛政1)学徒らの寄金によって,また興教大師(覚鑁)像を安置した開山堂は1667年(寛文7)7世能化の運敞と学徒の寄付金をもとに建立されたものである。大書院東側の庭園(名勝)は74年(延宝2),これも運敞の作庭と伝えられ,泉石の配置と建物との調和に優れ,京都有数の名園として有名である。障屛画のほか寺宝中のおもなものは,《孔雀明王画像》《滝図》《童子経曼荼羅図》などが重要文化財,南宋の書家張即之筆の〈金剛経〉が国宝に指定されている。
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百科事典マイペディア 「智積院」の意味・わかりやすい解説

智積院【ちしゃくいん】

京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。本尊大日如来。もと根来(ねごろ)の大伝法院の一院で,豊臣秀吉に焼かれたのを徳川家康が現地に再興した。江戸時代には新義真言宗の学問の中心となった。長谷川等伯の《楓図》をはじめ桃山障壁画の傑作が多い。庭園(名勝)は自然の地形を利用した桃山式のもの。→根来寺
→関連項目障壁画真言宗智山派

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「智積院」の解説

智積院
ちしゃくいん

京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。五百仏頂山と号す。院号は根来(ねごろ)寺にあった学問所に由来。1585年(天正13)根来寺が豊臣秀吉の攻撃で焼失した後,徳川家康の庇護を得て豊国社の一部を与えられた玄宥(げんゆう)が現在地に再興。江戸時代には学問研究の中心として多数の学徒を集めた。国宝の安土桃山時代の障壁画や張即之(ちょうそくし)筆「金剛経」をはじめ,多数の寺宝を所蔵。庭園は国名勝。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「智積院」の意味・わかりやすい解説

智積院
ちしゃくいん

京都市東山区にある真言宗智山派の総本山。仏頭山と号す。元は和歌山県根来 (ねごろ) 山大伝法院内にあり,学頭坊であった。天正 13 (1585) 年に豊臣秀吉に焼かれたが,慶長5 (1600) 年に徳川家康によって現在地に再建され,大伝法院の玄宥を住職としたので,玄宥が中興の祖とされる。明治になって独立し智山派と称した。大書院などに残る障壁画 (25面) は国宝に指定されている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「智積院」の解説

智積院
ちしゃくいん

京都市東山区にある新義真言宗智山派の総本山
豊臣秀吉がその子棄丸 (すてまる) を弔うために建てた祥雲寺のあとに,秀吉に滅ぼされた紀伊根来寺の智積院を,徳川家康の援助で再興した。桃山時代の障壁画の代表作『桜楓 (おうふう) 図』などがある。

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世界大百科事典(旧版)内の智積院の言及

【安土桃山時代美術】より

…また秀吉が愛児棄丸の菩提を弔って1593年(文禄2)に造営した祥雲寺客殿は,天瑞寺にまさる豪壮なものであった。その建物は残らないが,長谷川等伯とその一門による四季の樹木と草花を画題とした金碧障壁画は現在智積院に残り,永徳の巨大樹表現にやまと絵草花図の優美さを加えて,自然への親和の感情を示している。自然美のなかに浄土のイメージを見る日本の伝統的自然観が,現世肯定の時代精神と結びついて,このような単なる室内装飾の域をこえた時代精神の表現となっているのである。…

※「智積院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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