鎌倉時代の真言(しんごん)宗の僧。字(あざな)は俊音(しゅんおん)。通称は中性院法印(ちゅうしょういんほういん)、甲斐阿闍梨(かいあじゃり)。俗名は土生川豪信(はぶかわたけのぶ)。紀州(和歌山県)の人。幼少より聡明(そうめい)博識で知られ、高野山(こうやさん)に登って大伝法院の道悟に師事した。東大寺で三論(さんろん)、華厳(けごん)を、興福寺で瑜伽唯識(ゆがゆいしき)を学び、仁和寺(にんなじ)、醍醐寺(だいごじ)などで広沢(ひろさわ)流を学んだ。41歳で高野山の大伝法院学頭職となり、秋覚洞院実勝(しゅうがくとういんじっしょう)より印可を受けて中性院流を創始した。この間『阿字秘釈(あじひしゃく)』を撰(せん)して文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の霊感を被り、また『大日経疏(だいにちきょうしょ)』『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』などの註疏(ちゅうしょ)をつくる。これによって頼瑜の学徳は一山を圧したが、高野の衆徒が乱を起こしたため、大伝法院、密厳院(みつごんいん)を紀州根来(ねごろ)に移し、この地で新義真言教学を大成した。嘉元(かげん)2年1月1日没。著書は多い。
[吉田宏晢 2017年10月19日]
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…しかしその改革があまりにも急激であったため,東寺長者や金剛峯寺方の僧侶たちの反感を買い,1140年(保延6)ついに本末合戦に敗れて大伝法院方の僧侶たちとともに根来(現,和歌山県那賀郡岩出町)の地に移った。覚鑁の没後,大伝法院方の僧侶たちは院宣によって帰山したものの,その後も本末の争いは絶えることなく,1288年(正応1)大伝法院学頭頼瑜(らいゆ)(1226‐1304)は,大伝法院方の僧侶たちとともに高野山を最終的に退去し,付属の建物を根来の地に移して,根来寺として新たな出発をはかった。頼瑜は加持身教主説を提唱して教学上の新風をうちたて,新義真言宗興隆の基礎を築いた。…
…しかし覚鑁のあまりにも急激な改革は,東寺や金剛峯寺側の鋭い反発をよび,覚鑁はついに紀伊国那賀郡の根来(ねごろ)の地に退隠した。さらに1288年(正応1),大伝法院方の頼瑜は高野山金剛峯寺と袂別(べいべつ)し,大伝法院などを根来の地に移し,根来寺として新たな出発を行った。これがのちの〈新義真言宗〉の成立であり,これに対して従来の系統をのちに〈古義真言宗〉と呼ぶようになる。…
…34年院宣により覚鑁が大伝法院と金剛峯寺の座主(ざす)を兼務したことで,金剛峯寺の衆徒と争いを生じ,覚鑁は40年(保延6)高野山からこの地に退き,新たに一乗山円明寺を興した。覚鑁の死後も金剛峯寺との対立は続き,ついに1288年(正応1)頼瑜(らいゆ)が高野山より大伝法院と密厳院などをここに移した。これが新義真言宗の別立である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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