頼瑜(読み)ライユ

デジタル大辞泉 「頼瑜」の意味・読み・例文・類語

らいゆ【頼瑜】

[1226~1304]鎌倉時代真言宗の僧。紀伊の人。あざなは俊音。中性院流の祖。大伝法院密厳院根来ねごろ移し新義真言宗教義確立。著「大疏愚草」など多数

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精選版 日本国語大辞典 「頼瑜」の意味・読み・例文・類語

らいゆ【頼瑜】

  1. 鎌倉時代の新義真言宗の僧。中性院流の祖。字は俊音。通称中性院法印・甲斐法印・甲斐阿闍梨。高野山で修行し、のち東大寺、興福寺、仁和寺などに学ぶ。文永三年(一二六六)大伝法院の学頭となり、中性院を開き、著述講義に努めたが、金剛峯寺衆徒のねたみをかって根来山に移る。加持身説法説を唱え、新義派の教学の基礎を固めた。著書は「大日経疏指心鈔」一六巻、「十住心論愚草」三八巻など多数ある。嘉祿二~嘉元二年(一二二六‐一三〇四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「頼瑜」の意味・わかりやすい解説

頼瑜
らいゆ
(1226―1304)

鎌倉時代の真言(しんごん)宗の僧。字(あざな)は俊音(しゅんおん)。通称は中性院法印(ちゅうしょういんほういん)、甲斐阿闍梨(かいあじゃり)。俗名は土生川豪信(はぶかわたけのぶ)。紀州(和歌山県)の人。幼少より聡明(そうめい)博識で知られ、高野山(こうやさん)に登って大伝法院の道悟に師事した。東大寺で三論(さんろん)、華厳(けごん)を、興福寺で瑜伽唯識(ゆがゆいしき)を学び、仁和寺(にんなじ)、醍醐寺(だいごじ)などで広沢(ひろさわ)流を学んだ。41歳で高野山の大伝法院学頭職となり、秋覚洞院実勝(しゅうがくとういんじっしょう)より印可を受けて中性院流を創始した。この間『阿字秘釈(あじひしゃく)』を撰(せん)して文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の霊感を被り、また『大日経疏(だいにちきょうしょ)』『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』などの註疏(ちゅうしょ)をつくる。これによって頼瑜の学徳は一山を圧したが、高野の衆徒が乱を起こしたため、大伝法院、密厳院(みつごんいん)を紀州根来(ねごろ)に移し、この地で新義真言教学を大成した。嘉元(かげん)2年1月1日没。著書は多い。

[吉田宏晢 2017年10月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「頼瑜」の意味・わかりやすい解説

頼瑜
らいゆ

[生]嘉録2(1226)
[没]嘉元2(1304)
鎌倉時代の真言宗の僧。紀伊の人。出家後高野山に登って大伝法院の道悟に従う。東大寺や興福寺に遊学して,華厳,三論,瑜伽,唯識の諸学を修め,また仁和寺経瑜より広沢流を受ける。のちに高野山に帰って文永3 (1266) 年,大伝法院の学頭になる。また中性院に住し,以後その住むところをみな中性院という。やがて中性院流を創設し,伝法大会や著述に大いに活躍したが,高野山の衆徒にねたまれて争いが生じたので,正応1 (88) 年,大伝法院と密厳院を紀州根来山に移して伝法大会を修し,ここに新義真言宗が成立した。『大疏指心鈔』 (16巻) をはじめ 107部 450巻余の著作を残し,特に加持身説法説を提唱し,新義真言宗の教学の基礎を築いた。

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百科事典マイペディア 「頼瑜」の意味・わかりやすい解説

頼瑜【らいゆ】

鎌倉末期の真言宗智山派の僧。紀伊の人。高野山で出家,奈良・京都の諸大寺で華厳(けごん)・法相(ほっそう)・東密を学び,大伝法院の学頭となる。中性(ちゅうしょう)院を開き,講説著述に努めたが,衆徒の乱のため大伝法院・密厳院を根来(ねごろ)に移し,教学の大成に尽くした。著書は《大日経疏指心鈔》など100余部(450余巻)に及ぶ。
→関連項目根来寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「頼瑜」の解説

頼瑜 らいゆ

1226-1304 鎌倉時代の僧。
嘉禄(かろく)2年生まれ。高野山大伝法院,醍醐(だいご)寺でまなび,のち大伝法院学頭。実勝から灌頂(かんじょう)をうけ,中性院(ちゅうしょういん)流をひらく。正応(しょうおう)元年(1288)大伝法院と密厳院を紀伊(きい)根来(ねごろ)寺(和歌山県)にうつし,新義真言宗の基礎をつくった。嘉元(かげん)2年1月1日死去。79歳。紀伊那賀郡(和歌山県)出身。俗名は土生川。字(あざな)は俊音。著作に「大日経疏愚草(だいにちきょうしょぐそう)」など。

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世界大百科事典(旧版)内の頼瑜の言及

【新義真言宗】より

…しかしその改革があまりにも急激であったため,東寺長者や金剛峯寺方の僧侶たちの反感を買い,1140年(保延6)ついに本末合戦に敗れて大伝法院方の僧侶たちとともに根来(現,和歌山県那賀郡岩出町)の地に移った。覚鑁の没後,大伝法院方の僧侶たちは院宣によって帰山したものの,その後も本末の争いは絶えることなく,1288年(正応1)大伝法院学頭頼瑜(らいゆ)(1226‐1304)は,大伝法院方の僧侶たちとともに高野山を最終的に退去し,付属の建物を根来の地に移して,根来寺として新たな出発をはかった。頼瑜は加持身教主説を提唱して教学上の新風をうちたて,新義真言宗興隆の基礎を築いた。…

【真言宗】より

…しかし覚鑁のあまりにも急激な改革は,東寺や金剛峯寺側の鋭い反発をよび,覚鑁はついに紀伊国那賀郡の根来(ねごろ)の地に退隠した。さらに1288年(正応1),大伝法院方の頼瑜は高野山金剛峯寺と袂別(べいべつ)し,大伝法院などを根来の地に移し,根来寺として新たな出発を行った。これがのちの〈新義真言宗〉の成立であり,これに対して従来の系統をのちに〈古義真言宗〉と呼ぶようになる。…

【根来寺】より

…34年院宣により覚鑁が大伝法院と金剛峯寺の座主(ざす)を兼務したことで,金剛峯寺の衆徒と争いを生じ,覚鑁は40年(保延6)高野山からこの地に退き,新たに一乗山円明寺を興した。覚鑁の死後も金剛峯寺との対立は続き,ついに1288年(正応1)頼瑜(らいゆ)が高野山より大伝法院と密厳院などをここに移した。これが新義真言宗の別立である。…

※「頼瑜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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