横光利一(りいち)後期の長編小説。未完。1937年(昭和12)4月から46年4月まで断続的に『東京日日新聞』『文学界』『文芸春秋』などに発表。全四編。単行本は改造社から刊行。建設会社調査部勤務の矢代耕一郎を主人公とし、友人の久慈と有閑階級の令嬢宇佐美千鶴子(ちずこ)を配し、パリ、チロル、ウィーンを舞台に、日本の運命を議論する一大ロマンとなっている。とくに人民戦線内閣樹立で沸き立つパリを中心に、いわゆる「東洋と西洋」の異和の感覚を根本に据え、伝統精神と科学精神、古神道(しんとう)とカトリックなど、当時の横光利一の作家的主題が集約された形で提出されている。昭和10年代の日本の歴史的動向をあまりにも引き込みすぎた結果、その同時代性ゆえに、未完の大作たらざるをえなかった。
[栗坪良樹]
『『定本横光利一全集8・9』(1982・河出書房新社)』
横光利一の長編小説。1937年から46年にかけて各紙誌に断続して連載され,作者の死によって未完。1936年横光が新聞社の特派員として渡欧した折の見聞に端を発した作。その年から翌年の日中戦争突入のころまでが全編の時代背景となっており,その前半はパリが主要舞台。〈歴史の実習かたがた近代文化の様相を視察〉に渡欧する矢代耕一郎は船中で宇佐美千鶴子と知り合い,いっしょにチロルへ旅に出たりもするが,この2人が帰国後,ようやく結納をかわすあたりまでが後半に描かれる。そこからは旅で出会った2人の恋愛小説とも読めるが,《旅愁》という標題にはヨーロッパに旅した東洋人,日本人が味わう〈愁い〉=〈憂い〉がこめられており,東洋対西洋,伝統対科学といった課題に取り組んだ思想小説の要素も多分に備えている。〈日本主義者〉の矢代に対して西欧心酔者の久慈が配されることによって,作者の東西文明論も展開され,《旅愁》10年にわたる晩年の心情が随所にうかがわれる。
執筆者:保昌 正夫
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