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日ソ基本条約 ニッソキホンジョウヤク

デジタル大辞泉の解説

にっソ‐きほんじょうやく〔‐キホンデウヤク〕【日ソ基本条約】

大正14年(1925)日本と革命後のソ連との間に結ばれた条約。外交関係の樹立ポーツマス条約有効性などを確認。

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百科事典マイペディアの解説

日ソ基本条約【にっソきほんじょうやく】

日本・ソ連間の国交樹立を決定した条約。日本は,初めシベリアに成立した極東共和国と交渉し決裂,同国のソ連統合後,1923年の後藤=ヨッフェ会談も決裂したが,1924年北京でカラハン・芳沢謙吉が会談開始,翌1925年調印。
→関連項目シベリア出兵

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世界大百科事典 第2版の解説

にっソきほんじょうやく【日ソ基本条約】

ロシア革命により断絶していた日本とソビエト・ロシアとの国交を回復させた条約。1925年1月20日,北京で日本全権芳沢謙吉とソ連全権カラハンL.M.Karakhanとの間で調印された。シベリア出兵中の日ソ国交調整のための大連会議や長春会議は機が熟さず決裂し,日本軍は1922年10月沿海州から撤兵,11月ソビエト政府は極東共和国を合併してロシア全土を統一した。このころアメリカ石油資本が北樺太油田開発の着手を試みて日本海軍を強く刺激し,また,極東ソ連領漁業もソビエト政府が支配して極東共和国合併以前の漁業条約を無効とするなどの政策を推進した。

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大辞林 第三版の解説

にっソきほんじょうやく【日ソ基本条約】

1925年(大正14)革命後のソ連と日本との間の国交を回復するために結ばれた条約。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日ソ基本条約
にっそきほんじょうやく

1925年(大正14)1月20日に北京(ペキン)で調印された日本と当時のソ連との間の関係を律する基本的法則に関する条約。この条約により、日ソ両国は1917年の革命以後断絶していた外交・領事関係を確立し、日露戦争の終結に際して結ばれた1905年(明治38)のポーツマス条約が完全に効力を存続することを確認した。また、同条約議定書(甲)により、日本は当時北樺太(からふと)(サハリン)を占領していた日本国軍隊を25年5月15日までに撤退させることを約し、同条約議定書(乙)により、ソ連は北樺太における油田開発の利権を、日本に許与することを約した。日ソ国交樹立によって共産主義が広がることを恐れた日本は、同条約に秩序と安寧を危うくするようなことは行わないとの項を入れさせるとともに、国内では治安維持法を制定した。[中西 治]
『日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第一巻 満州事変前夜』(1963・朝日新聞社) ▽鹿島平和研究所編『日本外交史 第15巻 日ソ国交問題1917―1945』(1970・鹿島研究所出版会) ▽クタコフ著、ソビエト外交研究会訳『日ソ外交関係史 第一巻』(1965・刀江書院)』

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世界大百科事典内の日ソ基本条約の言及

【ソビエト連邦】より

…日本は侵略した側であったが,1920年春,ニコラエフスク市の日本人居留民虐殺事件,いわゆる〈尼港事件〉は〈過激派〉の恐ろしさを日本国民に印象づけるために十二分に利用された。
[日ソ基本条約]
 シベリア戦争に結着をつけ,日ソ国交を開いたのは,25年1月20日調印の日ソ基本条約と付属議定書であった。日本はソ連に1905年のポーツマス条約を認めさせ,北サハリンにおける油田の50%の利権供与を約束させた。…

【ロシア】より

…ロシア革命後の混乱期の18‐21年に日本政府はシベリアに軍隊を送ったが,ソビエト政権打倒には至らなかった。25年には日ソ基本条約が結ばれて国交が回復した。30年代には満州国に駐留する関東軍とソ連軍とのあいだに何回か武力衝突が繰り返された。…

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