日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本権兵衛内閣」の意味・わかりやすい解説
山本権兵衛内閣
やまもとごんべえないかく
大正期、山本権兵衛を首班として組織された第一次、二次に至る内閣。
[小林幸男]
第一次
(1913.2.20~1914.4.16 大正2~3)
第三次桂太郎(かつらたろう)内閣が大正政変で倒れたあと、山本権兵衛が立憲政友会の原敬(はらたかし)と結んで組織した内閣。内相原、外相牧野伸顕(まきののぶあき)、蔵相高橋是清(たかはしこれきよ)、海相斎藤実(さいとうまこと)らを擁して、現役武官大臣制の予・後備役への拡大、文官任用令の改正、行財政整理を断行して業績をあげたが、1914年1月、日本海軍高官がドイツのシーメンス兵器会社などから収賄していた事実が明るみに出て、海軍腐敗の責任追及が山本に集中して倒閣運動にまで拡大、貴族院も1915年度予算中の海軍費を大削減したため予算成立不能となり、3月24日総辞職した。倒閣運動の背後には山本薩摩(さつま)海軍内閣に対する長州・陸軍の閥族抗争が根深く絡んでおり、後継組閣にあたった山県有朋(やまがたありとも)系の清浦奎吾(きようらけいご)は海軍のボイコットで流産し、大隈重信(おおくましげのぶ)によって組織された。
[小林幸男]
第二次
(1923.9.2~1924.1.7 大正12~13)
関東大震災渦中の1923年9月2日に成立し「地震内閣」と称された。初め挙国一致内閣を企図して果たさず、内相後藤新平(ごとうしんぺい)、逓相(ていしょう)犬養毅(いぬかいつよし)、陸相田中義一(たなかぎいち)、農商相田健治郎、外相は当初山本が兼任、のち伊集院彦吉(いじゅういんひこきち)が就任した。同内閣は、普選実現、財政緊縮、陸軍軍縮、日ソ国交回復などを公約したが、当面は震災後の東京復興事業に追われ、戒厳令、緊急勅令治安維持令、支払猶予令、暴利取締令、帝都復興院官制などを公布、しかも政府の復興計画は政友会の反対で大削減され、火災保険問題政府案も臨時議会で否決された。この間、朝鮮人虐殺事件、大杉栄(おおすぎさかえ)ら社会主義者暗殺事件が続発、12月27日には難波大助(なんばだいすけ)による摂政狙撃(せっしょうそげき)事件(虎の門事件(とらのもんじけん))が起こり、内閣は即日引責総辞職した。後継内閣は清浦奎吾によって組織された。
[小林幸男]