徳仁(読み)なるひと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳仁」の意味・わかりやすい解説

徳仁
なるひと

[生]1960.2.23. 東京,千代田
第126代天皇在位 2019~ )。皇太子明仁と,民間から初めて皇室に嫁いだ美智子との間の第1皇男子として生まれる。称号浩宮(ひろのみや)。「親子別居」という皇室の伝統を破り,両親のもとで育てられた。1982年学習院大学文学部卒業後,同大学院博士前期課程に進学。1983年からイギリスのオックスフォード大学マートン・カレッジに 2年間留学し,テムズ川水運の歴史について研究する。皇位継承順位第2位の皇族の留学は初の試みだった。帰国後の 1988年学習院大学大学院の博士課程を修了。
1989年1月7日の昭和天皇崩御,明仁の天皇即位に伴い,皇太子となる。1991年2月23日立太子の礼。1993年6月9日,外交官の小和田恆の長女で,1986年に知り合った小和田雅子結婚。2001年12月1日第1皇女子,愛子内親王誕生。2019年4月30日の明仁の退位により,翌 5月1日に皇位を継ぎ即位。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳仁」の意味・わかりやすい解説

徳仁
なるひと
(1960― )

皇統譜にいう126代天皇。上皇明仁(あきひと)の第一男子。称号は浩宮(ひろのみや)。昭和35年2月23日生まれ。東宮(とうぐう)御所で両親に育てられ、学習院幼稚園に入園。1980年(昭和55)2月成年式。1982年学習院大学文学部史学科を卒業。卒業論文は「中世瀬戸内海水運の一考察」。同年4月同大大学院に進学。同年10月ブラジルを公式訪問。1983年6月からイギリスに留学、同年10月オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。イギリス王室との交流を深め、社会見聞を広めた。1985年帰国。1986年学習院大学院に復学。オーケストラ部のビオラ奏者としても活躍した。1987年初めて国事行為の臨時代行を務め、1989年(平成1)昭和天皇逝去により、皇太子となる。その後独立して赤坂御所から東宮仮御所へ転居。学習院大学の客員講師として教壇に立つなどの活躍もある。1993年6月9日に外務省次官(当時)小和田恒(おわだひさし)の長女雅子(まさこ)と結婚、2001年12月1日長女の敬宮愛子(としのみやあいこ)が誕生した。

[小田部雄次]

 2019年5月1日、125代天皇の退位により皇位を継承した。

[編集部]

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改訂新版 世界大百科事典 「徳仁」の意味・わかりやすい解説

徳仁 (なるひと)
生没年:1960(昭和35)-

天皇明仁の第1皇子。皇太子。称号は浩宮(ひろのみや)。1982年学習院大学文学部史学科卒業後,同大学大学院人文科学研究科に入学。83年イギリスに渡り,オックスフォード大学マートン・カレッジに入学,85年修了。88年学習院大学大学院卒業。93年小和田雅子と結婚。
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百科事典マイペディア 「徳仁」の意味・わかりやすい解説

徳仁【なるひと】

皇太子。天皇明仁(あきひと)の第1皇子。幼少時の称号は浩宮(ひろのみや)。2月23日誕生。1982年学習院大学文学部を卒業し,同年同大大学院に進学,史学を専攻。1983年オックスフォード大学に留学。1989年1月7日,皇太子となる。1993年6月9日小和田雅子と結婚。2001年敬宮愛子(としのみやあいこ)内親王誕生。

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