〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂にまつわる草創伝承があり(元暦二年二月日「明通寺住僧観西申状案」飯島こと氏蔵)、建武元年(一三三四)一二月日の明通寺衆徒等奏状案(明通寺文書)によれば、延暦年中(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が若狭国の国司であったとき、春子女御(桓武天皇の女御、田村麻呂の娘)の皇子誕生を祈り、かつ殺戮した蝦夷の亡魂の得脱を訪うため、遥かに天を仰いで、「我が願空しからずして未来正覚をなすのであらば、寺院を建てるにふさわしい地を示せ。その所に薬師尊像を造立し奉る」とひそかに願を発した。そのことばが終わるやいなや、神通により鏑矢が放たれた。その跡を追って高い山に登ったところ、一人の沙門がいた。草庵を構え、棡の木を本尊になぞらえ、端座していた。件の矢はかの木の下に中たって留まっていた。田村麻呂将軍は怪しんでその理由を問うと、沙門は「私はこの山に住んで歳久しく延源居士と称するものである。最近この庭で燃える火のように赤い光明を見たので、近づき見ると生身の医王善逝(薬師如来)であった。喜びのあまり、抱着き奉ったところ、棡の木に変わってしまった。この因縁によりかの霊木を礼拝供養しているのである」と答えた。田村麻呂はたちまちに感応がはっきりしていることを尊び、その木をもって等身の像を造立し、一寺を草創して以降、光明が常に山川に通じたので、寺号を明通寺と称したという。
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福井県小浜(おばま)市門前にある真言(しんごん)宗御室(おむろ)派の寺。棡山(ゆずりざん)と号する。平安時代の初め坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の発願で、諸堂が建立され、本尊薬師如来(にょらい)を安置した。その後火災にあったが、鎌倉時代に中興と仰がれる頼禅がきて、本堂(薬師堂)、三重塔、仁王(におう)門などを造営。のち祈願所として武家の尊信が厚く、寺門が繁栄した。現在、本堂・三重塔(ともに国宝、鎌倉時代)、弁天堂、仁王門、鐘楼、客殿などがあり、寺宝には平安後期の薬師如来、降三世(ごうざんぜ)明王、不動明王、深沙(じんじゃ)大将の木彫、『彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)絵巻』(市指定文化財)六巻、古文書などがある。
[勝又俊教]
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