国語学者。東京神田に時枝誠之の長男として出生。第六高等学校を経て東京大学文学部国文学科に入学,上田万年(うえだかずとし),橋本進吉の指導を受け,1925年卒業。27年京城帝大助教授,33年教授にすすみ,43年橋本進吉の後任として東京大学教授となる。はじめ《国語学史》(1940)を発表してその記述態度・方法において学界の注目を集め,さらに第2次大戦中の《国語学原論》(1941)においてはみずから〈言語過程説〉と命名した言語本質観にもとづく国語学の体系を公表し,やがて戦後の学界に新しい刺激剤となった。近世国語学者鈴木朖(あきら)の説に傾倒し,それを敷衍して文法論の基礎に心的過程の差によって生ずる詞(し)・辞(じ)の区別を説くとともに,品詞論においてのみならず構文論にわたって,巧みな比喩を論理にちりばめながら新説を立てた。心的過程としての言語の本質に関する考え方は社会性を十分に説くに足らず,過程の構造自体が不明瞭なものを残すのでその点には異論が多いが,文法論は日本語の性格によく適合するもので高い評価を受けた。《日本文法口語篇》《日本文法文語篇》はよき協力者を得た,その文法論の具体的展開である。
執筆者:山田 俊雄
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昭和期の国語学者 東京大学名誉教授。
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国語学者。文学博士。東京・神田生まれ。1925年(大正14)東京帝国大学卒業。京城(けいじょう)帝国大学教授を経て、1943年(昭和18)から1961年(昭和36)まで東京大学教授。以後早稲田(わせだ)大学教授。江戸時代以前の国語研究の態度、意識、方法を探索することを研究の出発点とし、その研究は、実証的研究というよりも、基礎的理論を樹立するという方向にあり、研究分野は国語学のほぼ全領域にわたっている。江戸時代以前の国語研究を整理したものに『国語学史』(『岩波講座 日本文学』第2「日本文学史概説」所収。1933)、『国語学史』(1940)がある。1937年6、7月にわたって発表された「心的過程としての言語本質観」(『文学』5ノ6、7)によって、言語を人間行為そのものとみる「言語過程説」が正面に打ち出される。これ以後、この言語本質観に基づいて、文法論、意味論、文字論、音声論、言語美論、敬語論等の各分野にわたっての論文が発表され、1941年に『国語学原論』としてまとめられた。以後、文法論は、『日本文法 口語篇(へん)』(1950)、『日本文法 文語篇』(1954)、『文章研究序説』(1960)などによって体系化された。国語問題、国語教育の分野にも積極的な関心をもち、それぞれ独自の見解を公にしている。『国語学原論』を発展させたものに『国語学原論 続篇』(1955)がある。言語生活史の体系的記述が企図されていたが、未完に終わった。
[鈴木一彦 2018年10月19日]
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…昭和年代になって,ソシュールの理論がいち早く紹介された。ソシュールに対しては,時枝誠記の独自の批判がある(《国語学原論》)。1930年代には,トルベツコイを中心とするプラハ言語学派の音韻論が導入された。…
※「時枝誠記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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