上田万年(読み)ウエダカズトシ

デジタル大辞泉 「上田万年」の意味・読み・例文・類語

うえだ‐かずとし〔うへだ‐〕【上田万年】

[1867~1937]国語学者。東京の生まれ。東大教授。B=H=チェンバレンに学び、ドイツ留学西欧言語学研究方法を紹介して科学的な国語学の端緒を開き、国語政策についても尽力した。著「国語のため」「国語学の十講」など。

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精選版 日本国語大辞典 「上田万年」の意味・読み・例文・類語

うえだ‐かずとし【上田万年】

国語学者江戸生まれ。東京帝大卒。東京帝国大学教授、神宮皇学館長を歴任。西欧の言語学研究方法を紹介し国語音韻の研究に貢献。また、臨時国語調査会などの委員として漢字制限字音かなづかい改訂などに尽力。著作「国語のため」、松井簡治共編の「大日本国語辞典」など。慶応三~昭和一二年(一八六七‐一九三七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上田万年」の意味・わかりやすい解説

上田万年
うえだかずとし
(1867―1937)

国語学者。現代の国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著『大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。

[古田東朔 2018年10月19日]

『「上田万年博士追悼録」(『国語と国文学』1937年12月号所収・至文堂)』『新村出筆録、古田東朔校訂「上田万年 国語学史」(『シリーズ名講義ノート』所収・1984・教育出版)』


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百科事典マイペディア 「上田万年」の意味・わかりやすい解説

上田万年【うえだかずとし】

国語学者。江戸生まれ。東大卒でチェンバレンに言語学の手ほどきをうけた。卒業後,1890年―1894年ドイツに留学,西欧言語学を学び,東大に国語研究室を創設し,国語学研究の基礎をつくった。他方ヨーロッパの綴字法の変遷を見て表音式の仮名遣いを用いるべきであるなど進歩的国語政策を主張した。主著《国語のため》《国語学の十講》等。円地文子は娘。
→関連項目国語新村出大日本国語辞典帝国文学橋本進吉

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改訂新版 世界大百科事典 「上田万年」の意味・わかりやすい解説

上田万年 (うえだかずとし)
生没年:1867-1937(慶応3-昭和12)

国語学者。現代の国語学の生みの親というべき人である。江戸に生まれ,1888年,帝国大学文科大学を卒業。当時,大学の講師であったB.H.チェンバレンの愛弟子で,この師から言語学の手ほどきをうけた。90年さらに言語学を深く研究するため渡欧し,当時言語学の本場であったドイツで,ブルークマンやオストホフらの一流学者のもとに学んだ。94年帰国して,帝国大学教授となり,博言学(当時,言語学をこう呼んだ)の講座をうけもった。98年文科大学内に初めて国語研究室を設けた。翌年,文学博士。1905年以後定年まで,国語学教授。その間,文部省専門学務局長,文科大学長,神宮皇学館長,臨時国語調査会会長を兼ねた。明治における日本の近代的な学問の啓蒙時代を築いた偉大な人物の一人として忘れることのできない学者である。自身の学問的業績は多くないが,よく学問を鼓吹し,後進を育てた功ははなはだ大きい
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上田万年」の意味・わかりやすい解説

上田万年
うえだかずとし

[生]慶応3(1867).1.7. 江戸
[没]1937.10.26. 東京
国語学者。 1888年東京大学卒業。 B.チェンバレンにつき国語学を学び,1894~1927年東京大学教授。 1890年ドイツに留学して西欧言語学を修め,帰国後その方法を適用して日本語の歴史的研究の端緒を開いた。日本語のハ行音が,p→f→hの変遷を遂げたことを説くp音考は学界に大きな影響を与えた。 1900年文学博士。 1902年国語調査委員会主査委員。著書『国語のため』 (I部,1895,II部,1903) ,『大日本国語辞典』 (1915~28,松井簡治と共著) ,『古本節用集の研究』 (1916,橋本進吉と共著) ,『近松語彙』 (1930,樋口慶千代と共著) など。明治,大正期の国語学発展に果した功績は大きい。娘に円地文子がいる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上田万年」の解説

上田万年 うえだ-かずとし

1867-1937 明治-昭和時代前期の国語学者。
慶応3年1月7日生まれ。円地文子の父。チェンバレンにまなび,ドイツなどに留学。明治27年から昭和2年まで母校東京帝大の教授をつとめ,近代国語学の基礎をきずく。この間同大文科大学長,国語調査委員会主査委員,神宮皇学館長。のち国学院大学長。昭和12年10月26日死去。71歳。江戸出身。著作に「国語のため」など。

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世界大百科事典(旧版)内の上田万年の言及

【仮名遣い】より

…たとえば,今日(きよう)を〈けふ〉と書き,葵(あおい)を〈あふひ〉と書き,ワ行に活用する動詞の活用語尾をハ,ヒ,フ,ヘで書くなど,これらを正式な仮名用法として初等教育に課することは無理と考えられた。そこで1883年(明治16)〈かなのくわい〉は仮名文字専用論とともに発音的仮名遣いにすべきことを唱え,東京文科大学の言語学,国語学の教授上田万年(かずとし)も,ヨーロッパの綴字法(てつじほう)の変遷を見て発音式の仮名遣いを用いるべきであると考えた。1900年小学校においては表音的な字音仮名遣いを実施し,08年にはすべて表音的な仮名遣いにしようとしたが,保守的な思想の人々はこぞって反対し,ついに契沖仮名遣いに復帰した。…

【言文一致】より

…なかでも美妙は,実作ばかりでなく,《言文一致論概略》などによってその文体を鼓吹し,2~3年にわたって賛否の論争が盛んで,〈言文一致〉はその主張,運動の名であるとともに,その文体の名ともなった。その後しばらく不振の時期をおいて,日清戦争後,標準語制定を急務とする上田万年の言文一致の主張をはじめ,四迷の翻訳,正岡子規の写生文などにより再び文壇に力を得,文語の〈普通文〉が一種の標準文体として固定しつつある一方で,新聞の論説も言文一致をとるものが現れた。 文章の改善は国語国字問題の重要な一環と考えられ,1900年には帝国教育会内に言文一致会が成立して,一つの国民運動となった。…

【大日本国語辞典】より

…上田万年・松井簡治共著(実際は松井著)の国語辞書。初版は本文4冊(1915‐19),著索引1冊(1928)。…

※「上田万年」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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