国語学者。現代の国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著『大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。
[古田東朔 2018年10月19日]
『「上田万年博士追悼録」(『国語と国文学』1937年12月号所収・至文堂)』▽『新村出筆録、古田東朔校訂「上田万年 国語学史」(『シリーズ名講義ノート』所収・1984・教育出版)』
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明治〜昭和期の国語学者,言語学者 東京帝国大学学長;貴院議員。
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国語学者。現代の国語学の生みの親というべき人である。江戸に生まれ,1888年,帝国大学文科大学を卒業。当時,大学の講師であったB.H.チェンバレンの愛弟子で,この師から言語学の手ほどきをうけた。90年さらに言語学を深く研究するため渡欧し,当時言語学の本場であったドイツで,ブルークマンやオストホフらの一流学者のもとに学んだ。94年帰国して,帝国大学教授となり,博言学(当時,言語学をこう呼んだ)の講座をうけもった。98年文科大学内に初めて国語研究室を設けた。翌年,文学博士。1905年以後定年まで,国語学教授。その間,文部省専門学務局長,文科大学長,神宮皇学館長,臨時国語調査会会長を兼ねた。明治における日本の近代的な学問の啓蒙時代を築いた偉大な人物の一人として忘れることのできない学者である。自身の学問的業績は多くないが,よく学問を鼓吹し,後進を育てた功ははなはだ大きい
執筆者:亀井 孝
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…たとえば,今日(きよう)を〈けふ〉と書き,葵(あおい)を〈あふひ〉と書き,ワ行に活用する動詞の活用語尾をハ,ヒ,フ,ヘで書くなど,これらを正式な仮名用法として初等教育に課することは無理と考えられた。そこで1883年(明治16)〈かなのくわい〉は仮名文字専用論とともに発音的仮名遣いにすべきことを唱え,東京文科大学の言語学,国語学の教授上田万年(かずとし)も,ヨーロッパの綴字法(てつじほう)の変遷を見て発音式の仮名遣いを用いるべきであると考えた。1900年小学校においては表音的な字音仮名遣いを実施し,08年にはすべて表音的な仮名遣いにしようとしたが,保守的な思想の人々はこぞって反対し,ついに契沖仮名遣いに復帰した。…
…なかでも美妙は,実作ばかりでなく,《言文一致論概略》などによってその文体を鼓吹し,2~3年にわたって賛否の論争が盛んで,〈言文一致〉はその主張,運動の名であるとともに,その文体の名ともなった。その後しばらく不振の時期をおいて,日清戦争後,標準語制定を急務とする上田万年の言文一致の主張をはじめ,四迷の翻訳,正岡子規の写生文などにより再び文壇に力を得,文語の〈普通文〉が一種の標準文体として固定しつつある一方で,新聞の論説も言文一致をとるものが現れた。 文章の改善は国語国字問題の重要な一環と考えられ,1900年には帝国教育会内に言文一致会が成立して,一つの国民運動となった。…
…上田万年・松井簡治共著(実際は松井著)の国語辞書。初版は本文4冊(1915‐19),著索引1冊(1928)。…
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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