日本語を研究対象とする学問の通称。方法と関心の重点とを異にするにしたがい,種々の立場ないし傾向がみられる。国語学の名称が社会的に確立されるようになったのは,旧東京帝国大学の文科大学において,明治20(1887)-30年代に,上田万年(かずとし)によってその名の講義が開かれるようになってからである。それ以来,実証的にも,理論的にも,さまざまの展開を経て,今日に至っている。国語学の呼称に先だって,〈日本語学〉という名を用いた人があるが(岡倉由三郎《日本語学一斑》,佐藤寛《日本語学新論》),これは世間に流布せずに終わった。しかし,厳密にいうと,日本語学と呼んだほうが好もしい点がある。第1に,国語学という表現は,〈国語を一般的に対象とする学問〉として理解されうるし,そのほうが,語として自然でもある。すなわち,国語学が,一般的な意味での国語に関する学問であるならば,スイスにおける国語と日本における国語との性質や相違を論じたり,あるいは,標準語と方言ないし少数民族の言語との関係や,文語と口語との関係などを理論的に論じたりするのが,国語学であろう。現実の国語学は,このような意味のものではないが,ただ,国語政策や国語教育の問題に対してどういう態度をとるかは,学者によって異なっている。しかし,学問としての国語学は,国語政策を政策の問題とし,国語教育を教育の問題とすることによって,これらが国語学自体の問題とは別個の研究領域であることを,あらかじめ,はっきりと明らかにしておくべきである。ただし,国語学者と呼ばれる人が,その識見をもって,国語政策および国語教育を批判したり,または,それに積極的に参与したりすることは,また別である。
第2に,国語学の名は,やや偏狭なひびきをもっている。現に,朝鮮では朝鮮語の研究を国語学と呼び,中国では中国語の研究を国語学と呼ぶ。学者のうちには,日本語学の名を外国人の日本語研究に限り,日本人による自国語の研究には国語学の名を用いたほうがいいとする人もあるが,かかる見解の根拠は,十分に科学的でない。しかしながら他面,国語学は,純粋な学問上の名であるより,伝統的には大学の講座の名または講義の題目として行われてきたところから,現実には教育組織の内部において初めて存在する学問であった。実際には,日本語の諸現象を客観的に記述することを目的とするにとどまらず,未来の社会に関する価値および規範を論ずる学問として,政策や教育の問題にも,少なくとも便宜上,触れるところがある。国語学とは,〈国語〉とはなんぞやという問に答える学問であるといいうるが,まさに,この問の含む意味から,国語学の性格が生まれてくるのである。
国語学は,明治時代に起こった学問である。いいかえれば,それが,この名によって自覚されたのは,ヨーロッパの言語学の影響によるものである。しかし,日本語の研究の伝統そのものは,古い。この,明治以前の研究は,国学の時代と,それ以前とに分けられる。国学以前の時代は,厳密には,むしろ,国語に関する自覚と反省とが,しだいに高まってきた時代であるが,その中にも,芽ばえとしては,後世の学問的研究に対して重要なものが宿っている。江戸時代に至れば,国学者の業績には,偉大なものが少なからずある。それらは,直接,明治の国語学に摂取されて,その実質を形づくっている。
今日の五十音図の原形は,平安時代の中期から後期にかけて作られたと思われる。これは,それ自体,日本語の音韻組織を明らかにしたものであるとともに,いろいろと,後世まで,国語研究の基礎として利用された。たとえば,今日でも,これは,動詞の活用を説く基礎になっている。また,五十音図と同じころに,〈いろは歌〉が作られた。これは,当時の標準的な日本語において,単独で発音しうる音節を集成したものである。このいろは歌は,仮名の学習にあたって必ず学ばれ,やがて,弘法大師の作であるとの伝説によってますます重んぜられるにいたった。このような関係から,いろは歌は,仮名遣いの問題を引き起こすもととなった。すなわち,時代の推移につれ,日本語の発音に変化が生じ,いろは歌では区別されている仮名のうち,その書き分けについて疑問となるものが出てきたのである。その結果,鎌倉時代に入って,まず,いわゆる定家仮名遣いが設定された。これが,中世には仮名遣いの規範として権威をもった。後に述べる契沖の研究は,これに対する反論である。また鎌倉時代から室町時代にかけて,しだいに,〈てにをは〉の問題が,修辞の面から注意を払われ,これが,後世の文法研究の源をなすのである。字書の編纂は,古くから行われた。初めは,漢字に和訓を付したものであったが(《新撰字鏡》《和名類聚抄》《類聚名義抄》),これらも,順を追って日本化し,平安時代の末ころには,訓から漢字を求めるものが生まれた(《色葉字類抄》)。時代が下るに従い,さらに種々の通俗的なものが出た。なお,明治以前においては,辞書における語彙の配列は,五十音順でなく,いろは順である。以上のほか,古代の国語研究としてあぐべきものに,古典の注釈および語源の穿鑿(せんさく)があるが,これらは,おおむね幼稚である。以上,全体を通じてみると,たとえ素朴でも,初めのうちは自由な態度で問題に接していた。ところが時代が下るにつれ,しだいに因襲を重んずる気風が増し,そこには,学問の生命である進歩というものが,ほとんど見られないことになった。また,後世から見てすぐれた見解であるものも,そのようなものは,かえって,その時代には孤立したまま埋もれていくきらいが強かった。かくして,つぎに述べる江戸時代の元禄期(1688-1704)は,国語研究の発達の歴史にとってもルネサンス的な意義をもっている。
元禄時代までは,いまだ,だいたい,従来の傾向を踏襲していたが,江戸時代に入って注目されるのは,歌道と連歌の要求にもとづく仮名遣い書の盛行である。その中には,すでに,定家仮名遣いに対しても,ようやく多少の疑問をいだくものが現れたが,このような動向を背景として,国語学史に一新紀元を画するのは,契沖である。彼は,因襲をしりぞけ,選ばれた資料にもとづいて,事実を客観的に帰納するところの,生きた学問の精神と方法とをもって時代にのぞんだ。すなわち,彼は,平安時代中期以前に成立した文献までさかのぼると,仮名遣いの混乱は見られないことを実証的に確かめ,そこでそれらの実例をもって,仮名遣い決定の具体的な根拠とした(《和字正濫鈔》)。当時にあっては,これに対する反対論もあったが,契沖はそれに痛烈な応酬を試みた。契沖の仕事は,その後,補訂を経て,今日のいわゆる歴史的仮名遣いに発達していくのである。いいかえれば,現代,歴史的仮名遣いと呼ぶところのものは,実は,いわば,契沖仮名遣いなのである。そして,この契沖仮名遣いも,結局は,いろは歌のための仮名遣いを合理化したもので,この精神の根本をくつがえしたものではない。契沖は,その方法において,前代と区別されるが,彼の目的としたところは,定家仮名遣いの改訂であって,いわば,その改訂したものを世にしこうとするにあった。なお,契沖は,たとえば,仮名の〈い〉と〈ゐ〉との違いが,昔の発音の違いに対応するものだということは,いまだ知らなかった。契沖も,一部の漢語については,それらの仮名遣いを取り上げたけれども,いわゆる字音仮名遣い全体に関する研究は,おくれて,本居宣長に至って,はじめて完成された(《字音仮字用格》)。宣長は,実際に万葉仮名を韻書と対照する方法をとった。字音仮名遣いは,実は,狭義の歴史的仮名遣いと異なり,仮名による漢字音の翻写の方式であって,むしろ,厳密には,仮名遣いといいがたいものである。ただ,字音仮名遣いが,反切(はんせつ)に対して忠実であろうとするのは,古来の伝統であり,これは,漢語学として,当然のことでもあった。字音仮名遣いの歴史主義は,この伝統を学問的に合理化しようとしたものである。かくて,宣長をうけて太田全斎が《漢呉音図》を著したのは,このような伝統を理論的におし進めたものである。全斎にもとづいて,白井寛蔭は,《音韻仮字用例》を著した。これが,今日,漢和辞書にのせる字音の仮名遣いの直接の根拠になっているが,漢字全体の仮名遣いを決定するには,結局,韻書の反切を用いるほかはない。漢音は,本来,韻書の反切を権威と仰いだ読書音であったから,古来の伝統と,その字音の仮名遣いとの間には,食い違うところがほとんどないが,呉音のほうは,反切で演繹的に定めたものと古例との間に一致しないものが出てくる。このような点に関しての研究は,明治以後の字音研究にまたなければならない。つぎに,宣長の弟子,石塚竜麿は,宣長の指導によって,いわゆる上代特殊仮名遣いを精査し,その結果を《仮字遣奥山路(かなづかいおくのやまみち)》と題して発表した。しかし,竜麿の明らかにしたところは,いろは四十七文字に,直接,関係をもたないものであったから,そのすぐれた業績も,実際の仮名遣いの問題の上にはなんらの波紋を起こすことなくして埋もれて終わった。いいかえれば,仮名遣いへの関心からは,それを顧みる人がなかったのである。ただし,竜麿自身の述べるところにも不備はあったのであって,部分的には,それが人の理解をはばんだということもある。竜麿が得たところの結果の真の価値を,新しい時代の学問のまなこをもって発見し,その埋もれた功績を顕彰したのは,後に述べる橋本進吉である。
国学の時代において,前代に引きつづいて,第1に仮名遣いの問題が展開されたのは,一面,国学者たち自身の実践上の要求が,まず,何に強く向けられたかを示すものである。ついで,関心が,修辞上の要求に応じて,文法の問題に集まったのは,これまた,当然のことである。そして,そのなかでは,まず,古来からの〈てにをは〉の問題が取り上げられたのも,また,自然のなりゆきである。表現のための修辞にとっては,活用のように文法体系に関するものより,個々の〈てにをは〉の用法のほうが重要である。しかし〈てにをは〉に関しては,いまだ,元禄時代を下っても,なお,おおむねは古来の説に従っていた。そして,ただ,時代の大きな流れの中に,おもむろに批判が加わっていった。これは,問題の性質が,仮名遣いとは,おのずから,違うためである。中世の伝授の独断を批判しただけでは,まだ〈てにをは〉を,そういうカテゴリーとして,全体として研究するところまではいかない。それには,もっと強い国学の学問精神が必要であった。それは,古代の日本語の特質を明らかにし,その本質に迫ろうという精神である。ついに,本居宣長と富士谷成章とは,それぞれ独立に,画期的な労作を発表したのである。宣長は,多くの実例の調査にもとづいて,係結(かかりむすび)の法則を帰納し,まず,これを1枚の図表で,《てにをは紐鏡(ひもかがみ)》にまとめて,公にした。ついで,《詞玉緒(ことばのたまのお)》を刊行し,《紐鏡》に図式化したところを中心として,いちいちの助詞の用法を,実例で裏づけた。《玉緒》の末書は,数多く著され,それらによって部分的にはいろいろの補訂が加わった。中で,最も見るべきものは,義門の《玉の緒繰分》と,中島広足の《詞の玉緒補遺》である。つぎに,成章の研究は,《挿頭抄(かざししよう)》と《あゆひ抄》とによって伝わっている。なかんずく,《あゆひ抄》が重要である。彼は,まず,品詞分類から出発し,あらゆる語を,名,装(よそい),挿頭,脚結(あゆい)の四つに分けた。このうち,脚結とは,一部の接尾語を含むところの,助詞・助動詞の総称である。成章は,これらを整然と分類し,その文法上の機能を明らかにした。その取扱いが体系的な点では,成章は,はるかに宣長を抜いている。ただ,その説き方が不必要にむずかしいものであったのと,彼の学問が確固とした流派を形づくらなかったこととで,その直接の影響は,《玉緒》の比ではない。
用言の活用に関する古代人の知識については,すでに鎌倉時代以来,芽ばえはうかがわれるが,多少ともまとまった形の研究ということになると,江戸時代も,いまだ中期以前には,その例にとぼしい。初めて,それが学問的な形をとるに至るには,〈てにをは〉の場合と同じく,宣長と成章をまたなければならない。〈てにをは〉が,この2人によって,それぞれに,どのような視野から取り上げられたかを思えば,活用の研究がこの2人に始まるのは,偶然のことではない。ただし,〈てにをは〉の研究のほうは,宣長と成章とによって,それぞれ完成されたのに対して,活用の研究のほうは,いまや,始まったのである。成章の研究の結果は,《あゆひ抄》の総論の部分に見えている。彼は,《装抄》の一書を活用の研究にささげたらしいが,これは,今は残っていないので,どこまで彼の研究の中味が豊かなものであったか,その点は不明であるが,《装図》と題して示したところの活用表は,いまだ不完全なものとはいえ,今日の活用表の原形として見ることができる。宣長は,《御国詞活用抄》という稿本を残している。彼は,動詞を活用によって27の種類に分け,このおのおのに属する語をあげた。しかし,いまだ,異なる活用の活用形相互の間の対応を設けることはしなかった。おそらく,《御国詞活用抄》は,宣長としては,まだ,十分,これを公にするまでに完成されたものではなかったのであろう。しかしながら,この書がきっかけとなって,研究の関心の中心は,〈てにをは〉から,活用に移っていった。まず,鈴木朖(あきら)が出て,《活語断続譜》を著した。彼は,宣長が27に分けた活用のすべてに対し,活用形の用法による相互の対応を明らかにした。すなわち,彼は,活用形を1等から7等までに分けて,これを図示した。本居春庭は,これを,さらに今日の六つに減じ,活用の種類を,五十音図の段によって整理した(《詞八衢(ことばのやちまた)》)。今日説くところの四段活用,二段活用,一段活用および変格活用の分類は,彼によってほぼその根幹が形づくられ,このような命名も,彼にさかのぼる。つぎに,義門は,係結の図表であった《てにをは紐鏡》を活用の図表に改めた《和語説略図》を作った。この図表に至って,はじめて,六つの活用形にそれぞれの名が与えられた。活用の研究にあずかって最も力あったのは義門である。従来遅れていた形容詞の詳しい研究をしたのも,また,彼の残した大きな貢献の一つである。以上の諸研究を総合した文法書も,江戸時代の末には,現れた。
以上の,国学の時代における国語研究は,当然,国学の学問精神を反映するものであって,その功は,いま説くまでもないが,他方,排外思想にわざわいされた面もある。同時に,純粋の日本を求めて古代へかえろうとする尚古思想がその特徴であるから,口語や俗語には関心を向けなかったことは,いうまでもない。これらは,好事家たちの手によって,たまたま,取り上げられたにとどまる。
→仮名遣い
国語学の紀元を画するのは,1886年(明治19)の,帝国大学における言語学の開講である。いまや,国語の研究は,国学の理念から解放されて,独自の学問となる道が,ここに,はっきりと開けた。当時の言語学は,ドイツを中心として発達した比較言語学および歴史言語学であった。これによって,まったく新しい方法が学ばれ,研究の視野がいちじるしく広がった。音声学は,ヨーロッパでは,19世紀の末以来,発達してきているが,これも輸入された。昭和年代になって,ソシュールの理論がいち早く紹介された。ソシュールに対しては,時枝誠記の独自の批判がある(《国語学原論》)。1930年代には,トルベツコイを中心とするプラハ言語学派の音韻論が導入された。これに対しては,有坂秀世のすぐれた批判的研究がある(《音韻論》)。なお,小林英夫は,第2次世界大戦前において,ソシュールをはじめ,言語学の理論に関する多くの論著を翻訳して,一般には原著に親しみがたい国語学者の啓蒙に大いに努めた。戦後においては,アメリカにおける言語学の業績が,鋭い批判のうちに服部四郎によって,翻案されてきている(たとえば,トウォッデルの音韻論,M. スワデシュの言語年代学)。しかし,国語学界へ及ぼした言語学の影響は,どちらかといえば,おおむね皮相的である。それは,一つには,大学の制度において,言語学の講座と国語学の講座とが,ほとんど最初から別の学科に分かれたことにある。また,言語学は,国語教育や国語政策の実践の問題には,ふつう直接には触れないし,したがって,手早くそれに寄与するところは多くないから,いわゆる国語学者は,そのような言語学に,あまり魅力を感じないということもある。さらにまた,実証を生命とする個別的な諸研究は,必ずしも,高度に抽象的な理論はこれを必要としない。
国語学は,学問的には,もとより,つねに言語学の影響を受けているが,社会の国語学に対する関心は,それの実践問題に対する寄与いかんにあった。そして,また,その点,現在も事情は同じである。これに対して,学者の側も,その関心にこたえようとする。もとより,これは,学者の社会に対する一つの責任である。したがって,種々の問題が,実は,純粋な言語学的関心とは別個に展開してきた。その歴史的な大きな流れは,文法研究である。それは,明治時代,規範文法として,まず,文語文法の確立をみたことに始まる。ついで口語文の教育に対応して,口語文法が取り上げられた。さらに,最近における文字を離れての口語そのものの教育に対する重視は,広く言語技術を説く国語学者たちを生むにいたった。彼らの中には,教育界にみずから進んでいく者もあり,ジャーナリズムを通じて,一般を熱心に啓蒙する者も多い。国語政策は,機構の力をまたなくては実現できないが,第2次世界大戦後は,国立国語研究所が設けられて,実践的な問題の確実な基礎をきずくために,種々の科学的調査を行いつつある。官僚機構と結びついたおかげで,国語の研究は,かつて,すでに大きな成果をあげた。上田万年は,かねてより国語に関する国家的な調査機関の必要を説いていたが,1902年(明治35),文部省に国語調査委員会が設けられた。この会は,その事業の目的として,国語問題の解決をうたったのであるが,世に送った調査報告の多くは,国語問題に寄与するところがとぼしかった。その代りに,それらは,その学術的価値においてはなはだすぐれ,明治から大正初期にいたる時代の,国語学の歴史を飾る不滅の業績となっている(《音韻調査報告書》《口語法調査報告書》,大矢透《仮名源流考》,山田孝雄《平家物語につきての研究》その他)。大正の初年に,国語調査委員会が廃止されてのち,少なくとも,表面的には,国語学は衰えたが,少数の優秀な学者は,その研究をつづけた。昭和年代に入ると,橋本進吉が,円熟した学問をもって学界にのぞみ,その指導のもとに,研究者も増して,研究分野も多岐にわたってきた。最近における言語への関心の高まりは,世界的な現象であって,いまや,日本の学界も,そういう空気に反応を示しつつある。
国語学の体系は,日本語の構造の研究(音韻論と形態論)と,変遷の研究とに分けられる。また,国語の実証的な記述研究を,その取り扱う対象から分けると,各時代の時代語の研究と,諸方言の研究とになる。これら,時代語および方言の研究は,その究極においては,語彙の研究である。国語史とは,このような記述的研究の実証的成果を客観的な資料として成立する,日本人の言語生活の歴史である。意味や文字や文体の研究などは,すべて,言語生活およびその文化の研究に属する。
時代語の研究では,奈良時代が最も問題に富む。それは,文献的に確かめうる過去の時代のうちで,奈良時代が現代からいちばんへだたった時代であるだけに,現代との差異も激しいからである。それだけに,興味も多く,研究も進んでいる。研究の進んでいるのは,研究の歴史が比較的長い結果であるとともに,また,資料文献が出そろっていて,その基礎的研究が行きとどいているせいである。1930年代およびそれ以後,とくに上代特殊仮名遣いの研究が盛んに行われた。その結果,奈良時代の日本語は,平安時代以後の日本語に比べて,いちじるしい特徴があることが知られるにいたった。つぎに,平安時代についていえば,この時代の言語の文法の研究は,国学以来の伝統を負って,現代に及んでいる。1930年代の後半以後,目覚ましい成果をあげたのは,当時のアクセントの解明である。早く大矢透が基礎をきずいた訓点資料の研究は,地味な研究の伝統が根強く守られてきて,戦後,飛躍的な隆盛を招いた。鎌倉時代については,かつて上述の国語調査委員会の仕事の一つとして,山田孝雄(よしお)が《平家物語》に関する精密な研究を完成したが,以後,それにつづく業績はない。これは,資料の関係で,研究が困難なためである。室町時代に入ると,いわゆる〈カナ抄物〉を主要の材料とする研究が進められつつある。室町末期から江戸初期にかけては,キリシタン版の諸文献が貴重な資料を提供し,研究もかなり進められている。江戸時代は,すでに現代に近いため,時代語としての構造上の特質については,比較的目だった問題にとぼしく,研究もさして多くない。しかし,封建主義を反映する各地の方言の確立の問題や,東京語の前身としての江戸語の成立の問題をはじめ,社会生活の複雑化に伴う諸現象について,国語史上の問題は,ようやく多くなって,明治時代につらなる。古代から現代に至る国語史として,真に見るべきものは,いまだ編まれていない。時代語の研究について最も貢献した学者をあげると,つぎのような人々がある。新村出,山田孝雄,橋本進吉,吉沢義則,春日政治,有坂秀世,湯沢幸吉郎,土井忠生,金田一春彦など。
方言については,沖縄についても,本土についても,多数の文献が世に送られている。1930年代の後半に至って,アクセントの研究が画期的な飛躍をとげた。また,そのころ,柳田国男の《蝸牛考(かぎゆうこう)》が成書として世に送られ,その方言周圏論が学界の関心を集めた。やや遅れて,フランスの言語地理学が紹介された。早くから問題となってきたのは,方言区画論であったが,それをアクセントの境界線に従って論ずる試みも示された。国語学者として,終始,方言の研究を育成してきたのは東条操で,彼は,長年にわたって収集した資料を,戦後,方言辞典の形にまとめて刊行した。また優秀な学者たちを動員して,《日本方言学》を編み,ここに,方言研究は,一応の総決算を見るにいたった。元来,方言の組織的な研究は,上述のように,国語調査委員会の事業の一つとして,明治になって起こったものである。これは,標準語制定という国語問題のための基礎資料として調査されたものであった。昭和年代になって,民間における方言の研究を隆盛に導いたのは,柳田国男を中心とする民俗学者であった。民俗学は,おのずから,その関心を語彙のほうに向けたが,柳田は,国語学そのものにも深い理解を有し,この方面をも助成するに力があった。また,彼自身の研究は,豊富な材料を駆使して,その卓抜な直感を裏づけている点で,その個性的な解釈も,けっして単なる詩人的空想とは異なる。その点,民俗学の方法を重んじた,もうひとりの大きな存在,折口信夫は,講壇から国語学を講じたにもかかわらず,国語学に関しては,しろうとである。国語学の問題でロマンティックなのが,系統論である。明治になって,外国の学芸を学んだ日本には,いろいろの新しい視野が開けた。日本民族の起源に関しても,新鮮な興味が感じられた。その結果は,神話の研究などとならんで,日本語の系統の問題が関心に上ったのである。専攻を異にするいろいろの人が,これについて仮説を立てた。何人もの外国人がこれに参与していることも,系統論の特徴である。言語学者および国語学者は,はじめは,むしろ,それらを批判する立場に立った。彼らは,積極的な議論をするには,慎重であった。しかし,専門領域の分化とともに,しだいに,系統論の問題は,言語学者と国語学者とにゆだねられてきて,いろいろな角度から吟味がなされつつある。構造からみれば,日本語が,朝鮮語やモンゴル語に最もいちじるしい類似点をもつことだけは,確かである。しかし,インド・ヨーロッパ語について,比較言語学が証明したような諸言語の起源的一致を,現在までのところ,日本語は,他のどの言語にも見いだすことができない。琉球語は,むしろ,本土方言に対立する大きな方言群とみなされる。
→言語学 →日本語 →方言
執筆者:亀井 孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
国語すなわち日本語について、客観的・体系的な研究を行う文化科学。日本語学ともいう。言語学の一部門であるが、国語という言語のもつ特性に伴い、言語学一般に比べて独特な内容を含んでいる。一般の言語学と同じく、音韻、文法、語彙(ごい)の部門があるが、そのほかに文字、文体などの部面が重視される。また、国語の歴史的研究や方言研究の部門があり、近時はコンピュータの導入による計量的研究の進展も著しい。
[築島 裕]
理論面では、国語の音韻の分析、音韻の単位の設定、音節・音素の認定とその体系づけなどの研究があり、実際面では、音声器官の生理学的研究を含む音声学がある。また、古来の音韻の歴史を研究する音韻史学がある。国語の音韻についての研究は、古く平安時代からおこり、もと漢字の字音や悉曇(しったん)(梵字(ぼんじ)ともいい、古代インドの文字で、仏教とともに日本に伝来した)の研究のなかでおこった。10世紀末ごろには五十音図がつくられていたが、これは国語の音節の体系的構成であり、11世紀末には清音と濁音との対立関係も明らかにされていた。また、そのころには、国語音にない漢字音独特の音節なども指摘されていた。漢字音の研究は仏典や漢籍の解読のための必要性から発達し、それとの対比のなかで国語音の研究が進んだ。古く日本語にン(n)の音がなかったこと、漢字音の韻尾にmとnとの区別があったことなども、江戸時代末までに明らかにされていた。音韻が歴史的に変化することが明確に意識されたのは、明治以後の西洋の言語学輸入以後のことだが、早く明治初年には、ハ行音の子音が古くpであって、それが琉球(りゅうきゅう)方言に残存していることなども主張された。明治末以後、文献の調査研究が進み、訓点資料、キリシタン資料などが活用されて、8世紀末と16世紀末を境目として、国語音韻史に三つの区分をたてることが提唱され、各期における音韻体系の全容が知られるに至ったが、古代の国語には母音が8種あり、いわゆる母音調和の要素を含むことなどが解明されて、日本語の系統論や本質論にも大きな進展がみられた。
[築島 裕]
国語の文法の研究は、語論、文論などに分かれるが、従来は語論が中心をなし、品詞分類、活用、用法などの面で発達を遂げてきた。しかし近時は、文の構造の分析など構文論的研究が進み、さらには文の集合たる文章を対象とする分野も提唱された。文法は論理的体系論で、観点によって種々の学説が成立しうるが、橋本進吉の外形的な文節論を基とする文法論が、教育界を中心に一般に広く知られている。しかし、山田孝雄(よしお)、松下大三郎、時枝誠記(もとき)などの文法論も、それぞれ独自の特徴を備え、学界では重視されている。体言・副詞・形容動詞など相互の本質的関連、活用の概念と構成、自立語と付属語との関係などは、現下の文法学界の中心課題といえよう。
国語の文法研究は主として中世以降に発達した。最初は活用による語尾の変化、係り結びの法則などの発見から進んで、江戸時代以後には、用言の活用表、活用形の設定、活用の種類の分類、品詞分類などの研究が進み、近世末にはほぼ現在みられるような語論の基礎ができあがった。それらのなかで、本居宣長(もとおりのりなが)、富士谷成章(ふじたになりあきら)、鈴木朖(あきら)などの業績がとくに著しい。幕末以後、洋学による西洋文典の直訳的輸入もあったが、在来の説と相まって、大槻文彦(おおつきふみひこ)、山田孝雄などの文法説が現れるに至った。古くから明治中ごろまで、文法研究の対象は、いわゆる文語文法で、もっぱら中古の歌文であったが、中世以来長い間文章語として規範的に使用されてきたものとして、当然の結果であった。明治以後には、言文一致運動などにより、現代語文がしだいに発達し、社会的地位を高めたのに伴い、口語文法の研究がおこった。しかし、従来の文語文法が基とされたため、種々の矛盾が生じ、その方法が反省されるに至っている。一方、文法の歴史的研究については、江戸時代までは断片的でまとまったものはなかったが、明治末期から国語の歴史的研究が進展するに伴い、山田孝雄は、奈良時代、平安時代、鎌倉時代の各時代について、共時論的(一定の時間における現象を平面的・体系的に記述すること)研究を初めて実践して、文法史研究の基礎を築いた。のち、湯沢幸吉郎らによって中世以降各時代の文法現象が解明されてきた。なお近時は、アメリカの言語学の方法による生成文法の論を国語のうえに適用した試みも提出されている。
[築島 裕]
単語の意味の研究は、個別的な面もあるが、語の構成法、語音の変換、語源の方法論など、一般的な問題も多い。これらは、各時代ごとに法則性の存在することが、国語史研究の進展によって明らかになってきたので、方法論も発達しつつあるが、なお比較的後進的な分野である。意味論は現在も方法論の模索が行われている状態である。また、語彙の集録である辞書は、古代以来多くのものが編述されてきたのであり、編述それ自体が語彙研究をなす面もあるが、古くは中国から輸入された漢字字書を模倣改編することから始まり、やがて国語音を基準にした配列のものも出現する。一方、和歌和文の研究から古語の解釈作業が発達し、語釈もしだいに詳密なものとなった。『節用集』『下学集』などの一般日用語辞書的なものが中世末以降発達したが、近世末になると、一方では考証を主とした精細な用例集も出現した。明治中期、大槻文彦によって著された『言海(げんかい)』は、西洋の近代辞書の体裁を踏まえた最初のものといわれるが、他方では古来の国語辞書の伝統も受け継いでいる。幕末には狩谷棭斎(かりやえきさい)などの考証学者が出て古代辞書の研究が進んだが、その体系的・史的研究は大正時代の橋本進吉の節用集研究などが早いものである。しかしこの方面は、個別的調査が多く、辞書史の流れのような大局的見地からの研究はあまり試みられていない。なお、現代語の語彙調査については、近時、計量的研究が発達して、多くの成果が生み出されている。
[築島 裕]
国語は古来、漢字、平仮名、片仮名を常用して複雑な表記体系を備えているにもかかわらず、文字の研究はあまり盛んではなかった。中国で盛行した漢字の研究は、日本ではわずかな業績しか出なかった。仮名については、中世以来論者はあったが、俗説的なものが多く、実証性や歴史的観点に乏しかった。明治末期に大矢透(とおる)が仮名の歴史的研究を開拓し、万葉仮名の字音、平仮名・片仮名の起源と発達、五十音図、いろは歌の成立の研究に、初めて科学的方法を導入して、目覚ましい成果をあげた。この方面は、大正以後、ことに第二次世界大戦後、訓点資料の研究の進展により、長足の進歩を遂げてきている。
[築島 裕]
文体の歴史的研究は、江戸時代までは観念的なものが多かったが、明治以後、中古の訓点資料、中世の抄物(しょうもの)資料などの研究が進み、現在では相当に細かい研究も出るに至った。しかし、方法論の面でなお問題が多く、今後の進展が望まれる分野である。
[築島 裕]
古くから方言への関心はあり、江戸時代には方言語彙集などが現れたものの、いずれも断片的、部分的であった。全国一律の大調査は明治中期に先鞭(せんべん)がつけられ、昭和初期以来、体系的方法論が進んで、全国にわたる音韻、文法、語彙の体系的研究が進捗(しんちょく)し、全国的な方言区画説が提唱され、その史的関係が論ぜられるに至った。近時は、共通語と方言、同一地域内での方言の年齢差、方言と国語史、などの問題も取り上げられている。
このほか、国語の系統論については、明治初期以来、ウラル・アルタイ語系説、南方語系説などをはじめ、諸種の言語との親近性を説く説が多いが、ヨーロッパ諸言語のように豊富な資料が得られないため、どの説も学界の定説の地位につくことができない状態にあり、今後も多くの進展は望みえない、というのが実情であろう。
[築島 裕]
『「国語学概論」(『橋本進吉博士著作集1』1946・岩波書店)』▽『時枝誠記著『国語学原論』(1941・岩波書店)』
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…また,その目的のために古言を正確に理解する必須の補助学問として着手された,漢字音,かなづかい,てにをは,用言の活用などについての研究が,《漢字三音考(かんじさんおんこう)》《詞玉緒(ことばのたまのお)》《御国詞活用抄(みくにことばかつようしよう)》などの国語研究上の業績に結晶していることも見のがしてはならない。これらの仕事は,富士谷成章(ふじたになりあきら),鈴木朖(すずきあきら),本居春庭(もとおりはるにわ)などの次代の学者に受けつがれ,今日の国語学の基礎をかたちづくっていったのである。国語学
[第3期]
宣長の死後,国学は大きくいって二つの流れに分かれる一時期を迎える。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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