時習館跡(読み)じしゆうかんあと

日本歴史地名大系 「時習館跡」の解説

時習館跡
じしゆうかんあと

[現在地名]熊本市二の丸

二ノ丸の北東部にあった熊本藩の藩校。東西二五間・南北七五間の面積をもつ。東門と南門があり、時習館は北にあり、南には武芸所のとうしや西せいしやがあった(熊本市史)。宝暦三年(一七五三)藩主細川重賢が宝暦の改革の一環として設立を命じ、同四年完成、翌五年開校された(熊本藩年表稿)。組織は総教の下に教授一人、助教一人、訓導、句読師、その他の教官が置かれた(制度考)。創立当時の総教は長岡内膳忠英、教授は初代が秋山玉山、続いて藪孤山高本紫溟・辛島道珠・近藤淡泉・片山豊嶼が任に当った。時習館や東・西藩士子弟はもとより、身分の低い軽輩や陪身、さらに百姓町人でも優秀な者には入学を許可し(井田衍義)、人材育成をめざした。


時習館跡
じしゆうかんあと

[現在地名]豊北町大字阿川 寺川

阿川あがわの中心地裏手の上山うえやま山麓にあった阿川毛利氏の郷校。館跡の前方後小路うしろこうじとよばれ、武家屋敷跡。右手に阿川毛利氏の館跡がある。時習館跡は石垣のみが残り、一〇〇メートルほど離れた研屋台とぎやのだいとよぶ地に武道場跡がある。

時習館は宝暦三年(一七五三)に阿川毛利七代広漢によって建てられ、「論語」第一学而篇より命名された。

初期の規模は不明であるが、明治初年の廃校時における職員は、学監一名、教頭一名、助教三名、主簿一名で、生徒は寄宿生二〇余名、通学生が一〇〇余名であったとある。


時習館跡
じしゆうかんあと

[現在地名]笠間市笠間

文化一四年(一八一七)秋元浚郊の私塾欽古きんこ塾を昇格して創設された藩校。文政六年―安政六年(一八二三―五九)まではさくら町にあり秋元の手で藩校の基礎となった「時習館功令学則」も作られ、おもに朱子学が講じられた。安政六年に大和田おおわだの東半分の武家屋敷を移転させ、山居さんきよにあった博采はくさい(文政七年創立、医学・薬草の研究)講武こうぶ(文政九年創立、武道の修練)を統合し、総合藩校時習館として新たに発足する。


時習館跡
じしゆうかんあと

[現在地名]豊橋市八町通二丁目

吉田藩の藩校。八町はつちよう小路沿いの武家屋敷地内、三の丸御門に向かって左側、現在の公会堂の辺り。敷地約一千四〇〇坪、建物九三坪。宝暦二年(一七五二)藩主松平信復により創設。館名は「論語」開巻の「子曰、学而時習之、不亦説乎」による。老臣北原忠光の筆跡を板刻して玄関に掲げた。創設時に全一一ヵ条の時習館定が出された。文化三年(一八〇六)信復の孫信明により新しく時習館条規が出され、文武兵三科を課した。職制は同一四年時において時習館掛三名、講釈素読惣掛二名、講釈方一名、講釈見習並惣掛一名、代講八名、素読教方一〇名、同扶助七名であった(公事記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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