熊本藩の藩校。1755年(宝暦5)藩主細川重賢(しげかた)が侍講秋山玉山(あきやまぎょくざん)の勧めもあって熊本城内二の丸に設立。校名は、孔子のことば「学びて時に之(これ)を習う」から採用。校舎は、学問する時習館と、武術稽古(けいこ)の東榭(とうしゃ)・西榭(せいしゃ)からなる。初代教授は玉山で、朱子学および古学、古文辞学を中心とする教育であった。算数、音楽、天文学も教育し、子供の能力・個性に応ずる教育方針をとり、身分・年齢を問わず入学させ、人材の養成に努め、藩政改革の一環とした。最優秀の学生は居寮生とし、藩費で菁莪斎(せいがさい)に寄宿させ、江戸留学もさせた。その後、教育方針が朱子学一辺倒となり、卒業生が藩政の中枢部を牛耳(ぎゅうじ)ったことから、政党「学校党」の拠点ともなった。卒業生には、幕末国家論を献策した横井小楠(しょうなん)(実学党)、明治天皇の侍講元田永孚(もとだながざね)、教育勅語を起草した井上毅(こわし)らがいる。1870年(明治3)藩政改革で廃止。同名の藩校は大田原(おおたわら)、笠間(かさま)、大聖寺(だいしょうじ)、三河(みかわ)吉田の各藩にもあった。
[森山恒雄]
『『熊本県史 総説篇』(1965・熊本県)』▽『下田一喜編著『稿本肥後文教史』(1923・共力舎)』
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肥後国熊本藩の藩校。2年前に開設した学寮を1754年(宝暦4)拡張し,城内二の丸に設立。秋山玉山が初代教授で,朱子学・古学併立であったが,しだいに朱子学に統一。藩士の子弟のみでなく庶民の希望者の入学も許した。経費は学料新地として新田を開き,藩費でまかなった。学科は漢学・習字・習礼・算法・音楽・故実・諸武芸。維新期には保守派のいわゆる学校党の本拠となった。
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…凶作がたびたび起こる中で1748年領民の直訴事件も発生した。52年(宝暦2)松平信復が藩校時習館を創設し,その孫信明も大田錦城を招いて学問を奨励し,天明の飢饉で荒廃しつつあった農村の復興に努力した。その子信順は藩営の富久縞(ふくしま)新田を開発し,幕府から資金の援助を受けたが,財政の窮乏は続き,信璋(のぶあき)のとき1848年(嘉永1)の改革仕法も失敗した。…
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