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時習館 じしゅうかん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

時習館
じしゅうかん

江戸時代の藩校名。三河吉田 (豊橋) 藩,常陸笠間藩,下野大田原藩,加賀大聖寺藩などにこの名を冠した藩校があったが,特に肥後熊本藩のものが有名。藩主細川重賢が宝暦2 (1752) 年に着工し,同5年に開校。文武を教える3校から成り,文事教授所を時習館,武芸演習場を東しゃおよび西しゃと称した。文武両道の士の養成を目的とし,程朱学を教育の根幹とし,習字,漢学,算術,故実,音楽などを教科とした。歴代藩主の奨励もあって,充実した教授陣,教科内容を誇り,藩校中の模範と目された。明治4 (1871) 年学制の改革に伴って他の藩校と同様,閉校した。

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デジタル大辞泉の解説

じしゅう‐かん〔ジシフクワン〕【時習館】

江戸時代、熊本藩の藩校。宝暦5年(1755)藩主細川重賢が設立。同名のものが他の藩にもあった。

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大辞林 第三版の解説

じしゅうかん【時習館】

熊本藩の藩校。1755年藩主細川重賢の創設。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

時習館
じしゅうかん

熊本藩の藩校。1755年(宝暦5)藩主細川重賢(しげかた)が侍講秋山玉山(あきやまぎょくざん)の勧めもあって熊本城内二の丸に設立。校名は、孔子のことば「学びて時に之(これ)を習う」から採用。校舎は、学問する時習館と、武術稽古(けいこ)の東(とうしゃ)・西(せいしゃ)からなる。初代教授は玉山で、朱子学および古学、古文辞学を中心とする教育であった。算数、音楽、天文学も教育し、子供の能力・個性に応ずる教育方針をとり、身分・年齢を問わず入学させ、人材の養成に努め、藩政改革の一環とした。最優秀の学生は居寮生とし、藩費で菁莪斎(せいがさい)に寄宿させ、江戸留学もさせた。その後、教育方針が朱子学一辺倒となり、卒業生が藩政の中枢部を牛耳(ぎゅうじ)ったことから、政党「学校党」の拠点ともなった。卒業生には、幕末国家論を献策した横井小楠(しょうなん)(実学党)、明治天皇の侍講元田永孚(もとだながざね)、教育勅語を起草した井上毅(こわし)らがいる。1870年(明治3)藩政改革で廃止。同名の藩校は大田原(おおたわら)、笠間(かさま)、大聖寺(だいしょうじ)、三河(みかわ)吉田の各藩にもあった。[森山恒雄]
『『熊本県史 総説篇』(1965・熊本県) ▽下田一喜編著『稿本肥後文教史』(1923・共力舎)』

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世界大百科事典内の時習館の言及

【吉田藩】より

…凶作がたびたび起こる中で1748年領民の直訴事件も発生した。52年(宝暦2)松平信復が藩校時習館を創設し,その孫信明も大田錦城を招いて学問を奨励し,天明の飢饉で荒廃しつつあった農村の復興に努力した。その子信順は藩営の富久縞(ふくしま)新田を開発し,幕府から資金の援助を受けたが,財政の窮乏は続き,信璋(のぶあき)のとき1848年(嘉永1)の改革仕法も失敗した。…

※「時習館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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