井上毅(読み)イノウエコワシ

デジタル大辞泉 「井上毅」の意味・読み・例文・類語

いのうえ‐こわし〔ゐのうへこはし〕【井上毅】

[1844~1895]政治家。熊本の生まれ。明治憲法制定に参画、また、法制局長官となり、教育勅語など詔勅法令を起草。枢密顧問官・文相などを歴任。

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精選版 日本国語大辞典 「井上毅」の意味・読み・例文・類語

いのうえ‐こわし【井上毅】

  1. 政治家。熊本藩出身。号は梧陰。明治憲法の制定に参与。教育勅語をはじめ、多くの勅令、法令を起草した。枢密顧問官。第二次伊藤内閣の文部大臣。天保一四~明治二八年(一八四三‐九五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「井上毅」の意味・わかりやすい解説

井上毅
いのうえこわし
(1843―1895)

明治前期の官僚。天保(てんぽう)14年12月18日熊本藩の陪臣飯田権五兵衛の三男に生まれる。1866年(慶応2)井上家の養子となった。幼名多久馬(たくま)、号は梧陰(ごいん)。主君長岡監物(ながおかけんもつ)に才能を認められて木下犀潭(きのしたさいたん)の塾に入門、さらに抜擢(ばってき)されて藩校時習館の居寮生となった。1867年、藩命によって江戸に遊学してフランス学を学ぶ。明治新政府成立後の1871年(明治4)司法省に入り、翌年渡欧調査団の一員としてフランス、ドイツを中心に国法学の修得と法制の調査に従事した。1873年に帰国するや、盛んに政府首脳部に対して献策し、しだいに大久保利通(おおくぼとしみち)、岩倉具視(いわくらともみ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの信任を得ていった。太政官(だじょうかん)大書記官となり、1881年10月の「明治十四年の政変」をめぐって薩長(さっちょう)藩閥勢力の背後で画策、大隈重信(おおくましげのぶ)の政府追放とプロシア流欽定(きんてい)憲法構想の採用を実現して、その位置を不動のものとした。政変後、参事院議官、内閣書記官長などを務め、伊藤博文のもとで憲法起草に従事した。1888年法制局長官に就任して枢密院書記官長を兼任。教育勅語の起草にも関与し、1893年には第二次伊藤内閣の文部大臣となったが、病気のため在任なかばで辞任し、明治28年3月17日に没した。

 形成期明治国家最大のブレーンとして、起草した草案や、大臣・参議などにかわり代筆した意見書は多数に上る。旧蔵文書は「梧陰文庫」として国学院大学が所蔵

[大日方純夫]

『井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝 史料篇』全6巻(1966~1977・国学院大学図書館)』『坂井雄吉著『井上毅と明治国家』(1983・東京大学出版会)』『渡辺俊一著『井上毅と福沢諭吉』(2004・日本図書センター)』


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改訂新版 世界大百科事典 「井上毅」の意味・わかりやすい解説

井上毅 (いのうえこわし)
生没年:1844-95(弘化1-明治28)

明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10-20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナードレースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩み,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「井上毅」の解説

井上毅

没年:明治28.3.17(1895)
生年:天保14.12.18(1844.2.6)
明治国家形成のグランドデザイナーとしての法政家。熊本藩家老長岡監物の家臣飯田権五兵衛,美恵の3男。号は梧陰。熊本藩の藩校時習館に学び,藩内で秀才をもって知られた。早く漢学の無用を悟り江戸に出てフランス学を幕府の開成所教授林正十郎に学んだ。維新後は時習館の先輩で,大学少博士岡松甕谷の招きで明治3(1870)年に大学の小舎長に任官した。これが井上の官僚としてのスタートであった。以後司法省に転じ,遣外使節岩倉具視の随員となり,明治5年末から6年9月に帰国するまで主としてフランスで司法行政の勉学をした。帰国後,井上は『仏国大審院考』『治罪法備攷』『王国建国法』『仏国司法三職考』のいわゆる司法4部作を著してわが国の司法制度の近代化に資した。民権家植木枝盛は井上毅のこれらの著作を読んで民権と抵抗権の規程で名高い『日本国国憲案』を起草したのであった。 参議大久保利通が暗殺されてのち,維新政府の政治権力をめぐって参議大隈重信と同伊藤博文が争い,伊藤政権を確立した明治14年の政変の舞台回しは,右大臣岩倉具視と組んだ井上毅の仕業であった。以後,井上は18年に臨時官制審査委員長として内閣制度を創設し,また宮内省にあって明治憲法と皇室典範を起草し,自らは枢密院書記官長としてこれらの審議を担当し,立憲議会制国家の基礎を構築した。22年の憲法発布後は臨時帝国議会事務局総裁となって,わが国の議会制度を確立した。24年ロシア皇太子襲撃の大津事件が勃発すると,お雇い外国法官のパテルノストロの意見に従って,ひとり内閣にあって司法権の独立を全うした。文部大臣となった26年には,わが国の近代教育制度の確定に尽瘁して肺結核が重篤となり,葉山の別邸で死去した。<参考文献>井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝史料篇』6巻,梧陰文庫研究会編『明治国家形成と井上毅』

(木野主計)

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「井上毅」の解説

井上 毅
イノウエ コワシ


肩書
枢密顧問官,文相

旧名・旧姓
旧姓=飯田

別名
通称=多久馬 号=梧陰

生年月日
天保14年12月18日(1843年)

出生地
肥後国熊本城下坪井町(熊本県)

経歴
肥後藩士飯田権五郎の三男。井上茂三郎の養子となり、木下犀潭の「〓村(いそん)書屋」、藩学自習館に学んだ。明治維新には戊辰戦争に従軍。2年上京、3年大学南校小舎長、4年司法省に転じ、5年岩倉具視使節団に随行、フランス、ドイツに留学。帰国後内閣法政官となり日清交渉に随行。内務大書記官、太政官大書記官を経て、14年参事院議官となり、伊藤博文の憲法綱領を作成、国会開設の勅諭を起草。15年内閣書記官長として条約改正運動を援け、以後伊藤枢密院議長の下、枢密院書記官長となり帝国憲法、皇室典範の立案を完了。23年枢密顧問官として教育勅語制定に尽力。26年第2次伊藤内閣の文相となり、高等学校舎の制定、実業教育の普及に努めた。死後子爵。著書に「梧陰存稿」、訳書に「王国建国法」「孛国憲法」などがあり、のち梧陰文庫として国学院大学に寄贈された。

没年月日
明治28年3月17日

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百科事典マイペディア 「井上毅」の意味・わかりやすい解説

井上毅【いのうえこわし】

明治の政治家。熊本藩士出身。藩校時習館,大学南校に学び1871年司法省に入省。岩倉具視伊藤博文らに用いられ,法制官僚として大日本帝国憲法皇室典範教育勅語等の起草に参画した。1890年枢密顧問官,1893年伊藤博文内閣の文相等を歴任。
→関連項目法制局長官明治14年の政変レースラー

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大学事典 「井上毅」の解説

井上毅
いのうえこわし
1844-95(弘化1-明治28)

明治期の官僚,政治家。熊本県出身。幼名多久馬,号は梧陰。熊本藩家老米田家の家臣飯田家に生まれる。同じ家中の井上家の養子。主君米田(長岡)是容に認められて木下犀潭(韡村)の家塾で学び,木下の推薦で藩校時習館の居寮生となる。1867年(慶応3)藩命で江戸に遊学してフランス語を学ぶ。1870年(明治3)大学南校に学び,中舎長をつとめる。1871年司法省に入り,翌年,渡欧調査団の一員として渡欧。1873年の帰国以来,次第に大久保利通,岩倉具視,伊藤博文らの信任を得ていった。プロシア憲法をモデルとした欽定憲法構想を岩倉に建言し,大日本帝国憲法の起草・制定で中心的役割を果たした。教育勅語の起草にも関与。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官などを歴任後の1893年に第2次伊藤博文内閣の文部大臣に就任。翌年病気で辞任するまでの短期間に,教授会の制度化,評議会の審議事項の拡大,講座制の設置などの帝国大学改革を実施した。また,高等学校令制定(専門学科が主で,大学予科が従),実業教育の振興などの政策を推進した。1894年子爵。編著に『治罪法備考』(1874年),翻訳に『王国建国法』(1875年)などがある。
著者: 冨岡勝

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「井上毅」の意味・わかりやすい解説

井上毅
いのうえこわし

[生]天保14(1844).12.18. 熊本
[没]1895.3.17. 葉山
官僚政治家。枢密顧問官,文部大臣を歴任。熊本藩の陪臣の出身。生家は飯田氏,権五兵衛の3男。幼名多久馬,慶応1 (1865) 年井上家の養子となる。明治4 (1871) 年司法省に入り法制官僚の道を進んだ。同5年司法卿江藤新平の渡欧随行員として,川路利良とともにヨーロッパに派遣され (江藤は渡欧せず) ,G.ボアソナードを知った。帰国後法律制定や制度改革に関して伊藤博文のブレーンとなる。特に大日本帝国憲法制定にあたっては,H.ロエスレルなど御雇外国人の助言を得つつ,その骨格を起案した。また教育勅語案文の作成をはじめ,重要案件の起草,意見書の提出など,明治中期の重要問題のほとんどに参画。この意味から井上を「明治国家のイデオローグ」と呼ぶことができよう。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井上毅」の解説

井上毅 いのうえ-こわし

1844*-1895 明治時代の官僚,政治家。
天保(てんぽう)14年12月18日生まれ。司法省につとめ,明治5年渡欧して司法制度をまなぶ。大久保利通に登用されて頭角をあらわし,岩倉具視(ともみ)の側近として明治十四年の政変を画策。19年から伊藤博文のもとで,大日本帝国憲法,皇室典範,教育勅語などを起草。枢密顧問官となり,26年文相。子爵。明治28年3月17日死去。53歳。肥後(熊本県)出身。本姓は飯田。号は梧陰(ごいん)。著作に「梧陰存稿」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「井上毅」の解説

井上毅
いのうえこわし

1843.12.18~95.3.16

明治期の官僚・政治家。号は梧陰(ごいん)。熊本藩出身。維新後官界に入り,司法省・法制局で累進。大久保利通・岩倉具視(ともみ)・伊藤博文の下で立法政策にたずさわり,明治憲法や教育勅語の起草に重要な役割をはたした。臨時帝国議会事務局総裁として議会開設準備にあたり,第1次山県内閣の法制局長官として第1議会に臨んだ。藩閥政府内の議会尊重派として知られる。第2次伊藤内閣の文相として学制改革にあたったが,肺病で死去。子爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「井上毅」の解説

井上毅
いのうえこわし

1843〜95
明治時代の政治家
熊本藩出身。1872年渡欧,帰国後岩倉具視・伊藤博文らに重用され,大日本帝国憲法の起草・制定に尽力。枢密顧問官・文相を歴任し,軍人勅諭・教育勅語の起草にも参加した。

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367日誕生日大事典 「井上毅」の解説

井上 毅 (いのうえ こわし)

生年月日:1844年12月18日
明治時代の官僚;政治家。子爵;文相
1895年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の井上毅の言及

【岩倉具視】より

…78年から82年にかけての彼の相つぐ意見書は,いかに皇室の基礎を固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,明治憲法起草の準備にあたらせたが,83年病死した。国葬,翌年正一位を追贈された。…

【教育勅語】より

…首相山県有朋は〈軍人勅諭〉(1882)の発布によって軍隊の思想統制に成功した経験から,教育にも同様の勅諭がほしいとの考えをもっており,文部省にその草案作成を命じた。はじめ文部省は帝国大学教授中村正直に草案執筆を委嘱したが,完成した草案の哲学論的・宗教論的色彩を法制局長官井上毅に批判され,この草案はしりぞけられ,この井上が山県の要望にこたえて草案を起草した。中村案,井上案とは別に案を起草していた元田永孚も,井上案ができるやこれに意見を述べ,結局井上案が基礎となり,細部にまで検討が加えられ練り上げられ,第1回帝国議会開会直前に発布にこぎつけたのである。…

【憲法義解】より

…両法案が枢密院に諮詢された際,各条項ごとに説明を付した原案理由書ともいうべき文書が配布された。井上毅が執筆し伊藤が加除修正してできたものであった。両法が制定されるや,この文書に対し伊藤が中心となり井上ほかの草案起草関係者に専門学者を加えた審査委員会をつくり,綿密な共同審査を行って完成したのが本書である。…

【私擬憲法】より

…以上の民権派諸案は,同時に外交権,軍事権,行政権などを中心とする天皇大権を認めるものが多く,全体としては君民共治の理念を基礎としている。一方,欽定憲法と君権主義を基本とする保守的な案は,元田永孚,岩倉具視,井上毅,山田顕義などの官僚による諸案であるが,そのなかで井上,山田案のような個人的な私案では,天皇の章の前に国土,国民の章を置き,議会に内閣弾劾権,国政調査権を認めるなど,一般民間私案と共通する立場を残している。このように見てくると,岩倉憲法綱領を出発点とし,伊藤博文らの憲法調査を経て起草制定された大日本帝国憲法が,当時の一般世論の期待や予想からかなり隔絶した方向で進められたことが理解できる。…

※「井上毅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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