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井上毅 いのうえこわし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

井上毅
いのうえこわし

[生]天保14(1844).12.18. 熊本
[没]1895.3.17. 葉山
官僚政治家。枢密顧問官文部大臣を歴任。熊本藩の陪臣の出身。生家は飯田氏,権五兵衛の3男。幼名多久馬,慶応1 (1865) 年井上家の養子となる。明治4 (1871) 年司法省に入り法制官僚の道を進んだ。

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デジタル大辞泉の解説

いのうえ‐こわし〔ゐのうへこはし〕【井上毅】

[1843~1895]政治家。熊本の生まれ。明治憲法制定に参画、また、法制局長官となり、教育勅語など詔勅法令を起草。枢密顧問官・文相などを歴任。

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百科事典マイペディアの解説

井上毅【いのうえこわし】

明治の政治家。熊本藩士出身。藩校時習館大学南校に学び1871年司法省に入省。岩倉具視伊藤博文らに用いられ,法制官僚として大日本帝国憲法皇室典範教育勅語等の起草に参画した。
→関連項目法制局長官明治14年の政変レースラー

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

井上毅 いのうえ-こわし

1844*-1895 明治時代の官僚,政治家。
天保(てんぽう)14年12月18日生まれ。司法省につとめ,明治5年渡欧して司法制度をまなぶ。大久保利通に登用されて頭角をあらわし,岩倉具視(ともみ)の側近として明治十四年の政変を画策。19年から伊藤博文のもとで,大日本帝国憲法,皇室典範,教育勅語などを起草。枢密顧問官となり,26年文相。子爵。明治28年3月17日死去。53歳。肥後(熊本県)出身。本姓は飯田。号は梧陰(ごいん)。著作に「梧陰存稿」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

井上毅

没年:明治28.3.17(1895)
生年:天保14.12.18(1844.2.6)
明治国家形成のグランドデザイナーとしての法政家。熊本藩家老長岡監物の家臣飯田権五兵衛,美恵の3男。号は梧陰。熊本藩の藩校時習館に学び,藩内で秀才をもって知られた。早く漢学の無用を悟り江戸に出てフランス学を幕府の開成所教授林正十郎に学んだ。維新後は時習館の先輩で,大学少博士岡松甕谷の招きで明治3(1870)年に大学の小舎長に任官した。これが井上の官僚としてのスタートであった。以後司法省に転じ,遣外使節岩倉具視の随員となり,明治5年末から6年9月に帰国するまで主としてフランスで司法行政の勉学をした。帰国後,井上は『仏国大審院考』『治罪法備攷』『王国建国法』『仏国司法三職考』のいわゆる司法4部作を著してわが国の司法制度の近代化に資した。民権家植木枝盛は井上毅のこれらの著作を読んで民権と抵抗権の規程で名高い『日本国国憲案』を起草したのであった。 参議大久保利通が暗殺されてのち,維新政府の政治権力をめぐって参議大隈重信と同伊藤博文が争い,伊藤政権を確立した明治14年の政変舞台回しは,右大臣岩倉具視と組んだ井上毅の仕業であった。以後,井上は18年に臨時官制審査委員長として内閣制度を創設し,また宮内省にあって明治憲法と皇室典範を起草し,自らは枢密院書記官長としてこれらの審議を担当し,立憲議会制国家の基礎を構築した。22年の憲法発布後は臨時帝国議会事務局総裁となって,わが国の議会制度を確立した。24年ロシア皇太子襲撃の大津事件が勃発すると,お雇い外国法官のパテルノストロの意見に従って,ひとり内閣にあって司法権の独立を全うした。文部大臣となった26年には,わが国の近代教育制度の確定に尽瘁して肺結核が重篤となり,葉山の別邸で死去した。<参考文献>井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝史料篇』6巻,梧陰文庫研究会編『明治国家形成と井上毅』

(木野主計)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

いのうえこわし【井上毅】

1844‐95(弘化1‐明治28)
明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10‐20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72‐73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。

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大辞林 第三版の解説

いのうえこわし【井上毅】

1843~1895) 政治家。熊本藩士。伊藤博文の下で大日本帝国憲法・皇室典範の起草にあたった。その他、教育勅語・軍人勅諭など多くの勅令・法令の起草に関与。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

井上毅
いのうえこわし
(1843―1895)

明治前期の官僚。天保(てんぽう)14年12月18日熊本藩の陪臣飯田権五兵衛の三男に生まれる。1866年(慶応2)井上家の養子となった。幼名多久馬(たくま)、号は梧陰(ごいん)。主君長岡監物(ながおかけんもつ)に才能を認められて木下犀潭(きのしたさいたん)の塾に入門、さらに抜擢(ばってき)されて藩校時習館の居寮生となった。1867年、藩命によって江戸に遊学してフランス学を学ぶ。明治新政府成立後の1871年(明治4)司法省に入り、翌年渡欧調査団の一員としてフランス、ドイツを中心に国法学の修得と法制の調査に従事した。1873年に帰国するや、盛んに政府首脳部に対して献策し、しだいに大久保利通(おおくぼとしみち)、岩倉具視(いわくらともみ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの信任を得ていった。太政官(だじょうかん)大書記官となり、1881年10月の「明治十四年の政変」をめぐって薩長(さっちょう)藩閥勢力の背後で画策、大隈重信(おおくましげのぶ)の政府追放とプロシア流欽定(きんてい)憲法構想の採用を実現して、その位置を不動のものとした。政変後、参事院議官、内閣書記官長などを務め、伊藤博文のもとで憲法起草に従事した。1888年法制局長官に就任して枢密院書記官長を兼任。教育勅語の起草にも関与し、1893年には第二次伊藤内閣の文部大臣となったが、病気のため在任なかばで辞任し、明治28年3月17日に没した。
 形成期明治国家最大のブレーンとして、起草した草案や、大臣・参議などにかわり代筆した意見書は多数に上る。旧蔵文書は「梧陰文庫」として国学院大学が所蔵。[大日方純夫]
『井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝 史料篇』全6巻(1966~1977・国学院大学図書館) ▽坂井雄吉著『井上毅と明治国家』(1983・東京大学出版会) ▽渡辺俊一著『井上毅と福沢諭吉』(2004・日本図書センター)』

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世界大百科事典内の井上毅の言及

【岩倉具視】より

…78年から82年にかけての彼の相つぐ意見書は,いかに皇室の基礎を固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,明治憲法起草の準備にあたらせたが,83年病死した。国葬,翌年正一位を追贈された。…

【教育勅語】より

…首相山県有朋は〈軍人勅諭〉(1882)の発布によって軍隊の思想統制に成功した経験から,教育にも同様の勅諭がほしいとの考えをもっており,文部省にその草案作成を命じた。はじめ文部省は帝国大学教授中村正直に草案執筆を委嘱したが,完成した草案の哲学論的・宗教論的色彩を法制局長官井上毅に批判され,この草案はしりぞけられ,この井上が山県の要望にこたえて草案を起草した。中村案,井上案とは別に案を起草していた元田永孚も,井上案ができるやこれに意見を述べ,結局井上案が基礎となり,細部にまで検討が加えられ練り上げられ,第1回帝国議会開会直前に発布にこぎつけたのである。…

【憲法義解】より

…両法案が枢密院に諮詢された際,各条項ごとに説明を付した原案理由書ともいうべき文書が配布された。井上毅が執筆し伊藤が加除修正してできたものであった。両法が制定されるや,この文書に対し伊藤が中心となり井上ほかの草案起草関係者に専門学者を加えた審査委員会をつくり,綿密な共同審査を行って完成したのが本書である。…

【私擬憲法】より

…以上の民権派諸案は,同時に外交権,軍事権,行政権などを中心とする天皇大権を認めるものが多く,全体としては君民共治の理念を基礎としている。一方,欽定憲法と君権主義を基本とする保守的な案は,元田永孚,岩倉具視,井上毅,山田顕義などの官僚による諸案であるが,そのなかで井上,山田案のような個人的な私案では,天皇の章の前に国土,国民の章を置き,議会に内閣弾劾権,国政調査権を認めるなど,一般民間私案と共通する立場を残している。このように見てくると,岩倉憲法綱領を出発点とし,伊藤博文らの憲法調査を経て起草制定された大日本帝国憲法が,当時の一般世論の期待や予想からかなり隔絶した方向で進められたことが理解できる。…

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