曽於(市)(読み)そお

日本大百科全書(ニッポニカ) 「曽於(市)」の意味・わかりやすい解説

曽於(市)
そお

鹿児島県、大隅半島(おおすみはんとう)の北部に位置する市。北東部は宮崎県に接する。2005年(平成17)曽於郡大隅町、財部町(たからべちょう)、末吉町(すえよしちょう)が合併、市制施行して成立。市名は郡名を採用。市域の北部は霧島山南東麓の山地シラス台地が広がり、大淀川(おおよどがわ)水系の上流部にあたる諸河川が谷間を流下し、東部域の都城(みやこのじょう)盆地へ向かう。南部は丘陵とシラス台地で、菱田川(ひしだがわ)が南東流する。大淀川水系の流域財部市街、末吉市街が、菱田川流域に大隅市街が発達する。東隣の宮崎県都城市と日常生活や文化面でのつながりが深い。JR日豊(にっぽう)本線、国道10号、222号、269号が通じ、東九州自動車道の末吉財部、曽於弥五郎の2インターチェンジなどがある。

 二反田(にたんだ)遺跡をはじめ先史時代の遺跡が全域に分布する。古代には、大淀川流域は日向国諸県(もろかた)郡財部郷に、菱田川流域はほぼ大隅(おおすみ)国贈於郡に属したとみられる。贈於郡には贈於君一族が勢威を振い、720年(養老4)の隼人の反乱も、贈於君一族が中心になって朝廷軍と争ったものであろう。岩川八幡(いわがわはちまん)神社の祭礼(弥五郎どん祭、県指定無形民俗文化財)で引かれる「弥五郎どん」は、隼人の乱の首領との伝承がある。中世の市域は、島津荘の新立荘である深河院(ふかがわいん)、財部院に属した。両院は近衛家領で、惣地頭島津忠久。南北朝期、日向国境の政治・軍事上の要衝に末吉城が築かれる。大隅国入りした今川満範も同城に入って守りを固め、南朝方の島津氏久や配下の野辺氏勢などと戦っている。室町期には、末吉城が日向の伊東氏に対する島津氏の防衛拠点となった。ほかに恒吉(つねよし)城、財部城なども、南北朝期から戦国時代にかけて財部氏、肝付(きもつき)氏、北郷(ほんごう)氏、新納(にいろ)氏、島津氏らが争奪を繰り返した。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州仕置により、市域は伊集院氏の知行となったが、庄内の乱後、島津氏の直轄領となり、市域は財部郷、末吉郷および恒吉郷に所属。地頭仮屋が置かれた財部町北俣(きたまた)地区、末吉町諏訪方(すわかた)地区、大隅町恒吉地区は一帯の行政の中核となった。

 現在の基幹産業は農業で、甘藷、蔬菜などを栽培。また肉牛、ブロイラー、ブタなどの畜産も盛んで、食肉処理を行う南九州畜産興業(現、ナンチク)がある。住吉神社の流鏑馬、熊野神社の鬼追いは県指定無形民俗文化財。投谷(なげたに)八幡宮の本殿ほかは県指定文化財(2022年本殿、拝殿、末社は焼失)。花房(はなふさ)峡、大川原(おおかわら)峡、大鳥(おおとり)峡などの景勝地があり、溝ノ口洞穴(みぞのくちどうけつ)は国指定天然記念物。面積390.14平方キロメートル、人口3万3310(2020)。

[編集部]


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