最寄貝塚(読み)もよろかいづか

精選版 日本国語大辞典 「最寄貝塚」の意味・読み・例文・類語

もよろ‐かいづか‥かひづか【最寄貝塚】

  1. 北海道網走市北一条東にあるオホーツク文化期の遺跡。網走川河口左岸の砂丘にある。二〇余の竪穴住居跡があり、貝層から三〇体以上の人骨が発見された。出土土器は、縄文式・彌生式とも異なるオホーツク式土器で、伴出した人骨もアイヌのものとは異なり、モヨロ貝塚人と名づけられている。昭和一一年(一九三六国史跡に指定。モヨロ貝塚

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日本歴史地名大系 「最寄貝塚」の解説

最寄貝塚
もよろかいづか

[現在地名]網走市北一条東

網走川河口左岸、標高五―六メートルの砂丘上に位置するオホーツク文化の遺跡。明治時代からその存在が紹介されていたが、大正初期からの米村喜男衛による精力的な調査研究と遺跡の保護活動によって、広く世に知られることとなった。昭和二二年(一九四七)から同二六年には東京大学・北海道大学・網走市立郷土博物館による合同調査が行われた。第二次世界大戦後の北海道考古学の出発点であるとともに、オホーツク文化の存在とその内容を初めて具体的に示したものとして研究史上重要な遺跡である。昭和一一年国の史跡に指定されている。地表近くの最上層はアイヌ人骨などが含まれるアイヌ文化期のもので、その下層からは貝層とともにオホーツク文化期のものが、最下層からは縄文時代晩期から続縄文期の遺物が出土した。調査によってオホーツク文化期の貝塚のほかに二軒のオホーツク文化期の住居跡、四軒の縄文晩期―続縄文期の住居跡、オホーツク文化期の墓三〇基が検出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「最寄貝塚」の解説

もよろかいづか【最寄貝塚】


北海道網走(あばしり)市にあるオホーツク文化の集落跡。網走川河口の標高5mの砂丘台地にあり、1913年(大正2)、在野の考古学研究者米村喜男衛(よねむらきおえ)によって研究調査された。最寄貝塚の名称で国史跡に指定されているが、一般にはモヨロ貝塚と表記されることが多い。日本列島の縄文時代晩期にあたる時期から集落がつくられ始め、出土した土器から北海道先史時代の続縄文文化、擦文(さつもん)文化、その後のアイヌ文化とも異なる独自のオホーツク文化の存在を世に知らしめた。モヨロ貝塚の担い手は、一説によれば、オホーツクから千島列島サハリン、アムール川流域を結ぶ地域で活動したニブフ民族(ギリヤーク族)ではないかといわれる。五角形の大型竪穴(たてあな)式住居跡が発掘されており、数家族が同居して海獣狩猟や漁労をおもな生業としていたと考えられている。貝塚からは屈葬された人骨、骨角器、土器、石器などが発掘され、海獣の骨や牙を彫った動物像や細い優雅な線文様の土器、海獣の油の光沢をもつ土器などが発見されている。また、本州で製作されたとみられる鉄の刀や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴や帯飾りなどがあることから、広範な交易があったことも想像されている。1936年(昭和11)に国の史跡に指定され、1973年(昭和48)に一部の解除と追加指定が行われた。JR石北本線網走駅から徒歩約19分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「最寄貝塚」の意味・わかりやすい解説

最寄貝塚
もよろかいづか

北海道網走市の網走川河口左岸の砂丘上にあるオホーツク文化期の代表的集落遺跡。モヨロ貝塚とも書く。数次の調査により,貝塚や大型の竪穴住居址,土壙墓などが発見された。土器,石器,鉄器が出土し,特に蕨手刀や中国遼代の土器の発見はこの貝塚の年代を考えるうえで重要である。土壙墓出土の人骨は最寄貝塚人と呼ばれ,その系譜をめぐり多くの論議がなされている。

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