月照(読み)ゲッショウ

デジタル大辞泉 「月照」の意味・読み・例文・類語

げっしょう〔ゲツセウ〕【月照】

[1813~1858]江戸末期の法相ほっそうの僧。京都清水寺成就院の住職大坂の人。号、無隠庵。尊攘派として国事奔走安政の大獄に際し西郷隆盛らと薩摩さつまに逃れたが、藩の保護を断られ、錦江湾投身

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精選版 日本国語大辞典 「月照」の意味・読み・例文・類語

げっしょうゲッセウ【月照】

  1. 幕末の僧。勤王家。姓は玉井。名は忍向(にんこう)。大坂の人。京都清水寺成就院の蔵海に師事し、同寺の住職を継ぐ。近衛忠熙(ただひろ)の知遇を得、尊王攘夷運動に奔走。安政大獄に際し、西郷隆盛と薩摩にのがれたがいれられず、日向に移る途中、隆盛とともに海中に投身、隆盛は助けられた。文化一〇~安政五年(一八一三‐五八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「月照」の意味・わかりやすい解説

月照
げっしょう
(1813―1858)

江戸末期の志士、僧。讃岐(さぬき)(香川県)出身の大坂の町医玉井宗江の子に生まれる。幼名宗久。1827年(文政10)叔父清水寺(きよみずでら)成就院(じょうじゅいん)住職蔵海(ぞうかい)の下で得度。中将房忍鎧(介)(にんがい)、のち忍岡(にんこう)と改名、字(あざな)は月照、無隠庵(むいんあん)・一鋒(いっぽう)と号した。35年(天保6)成就院住職となり同院の復興に努めた。青蓮院宮(しょうれんいんのみや)、近衛忠煕(このえただひろ)ら堂上に出入りし、ことに忠煕に和歌を学ぶ。54年(安政1)住職を弟信海に譲り国事に奔走、58年梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと交わり攘夷(じょうい)の勅諚(ちょくじょう)を水戸藩に下すことに成功した。安政の大獄に際し西郷隆盛(たかもり)とともに鹿児島に行くが、薩(さつ)藩当局にいれられず、同年11月16日西郷とともに錦江(きんこう)湾に入水(じゅすい)。西郷は助かったが、月照は没した。墓は京都清水寺にある。

[芳 即正]

『友松円諦著『月照』(1961・吉川弘文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「月照」の解説

月照

没年:安政5.11.16(1858.12.20)
生年:文化10(1813)
幕末の勤王僧。大坂の町医師玉井宗江の子。文政10(1827)年,清水寺成就院蔵海の室に入り,得度して忍介(忍鎧)を名とす。時に年15歳。天保6(1835)年蔵海の死去により成就院持住,一山の改革に着手したが成功せず,嘉永6(1853)年7月に出奔し北越を旅し,翌安政1(1854)年2月境外隠居の処分を受く。このころから月照を名とする。清水寺が近衛家の祈願寺の一であったことから,当主忠煕と交流があった。近衛家と島津家とは姻戚関係にあり,ここから薩摩(鹿児島)藩士との交流が始まる。安政5年,西郷隆盛,海江田信義らの井伊幕政打倒工作に参画尊攘派志士への逮捕が始まって,同年9月京を脱し鹿児島に逃れるが,薩摩藩庁から退去を命ぜられ西郷と共に入水,死去した。辞世の句にいう。「大君のためには何かをしからん 薩摩の迫門に身は沈むとも」。<参考文献>友松円諦『月照』

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「月照」の意味・わかりやすい解説

月照 (げっしょう)
生没年:1813-58(文化10-安政5)

幕末の僧侶,志士。諱(いみな)は宗久,通称忍向,月照は号。大坂の町医玉井鼎斎の長男。15歳で京都清水寺成就院に入り,23歳で住職となる。1854年(安政1)寺務を弟信海に譲り尊攘運動に挺身,水戸藩への戊午の密勅降下に尽力した。このため安政の大獄のさい追及を受け,西郷隆盛らに守られ薩摩藩に難を避けんとしたが入れられず,西郷と錦江湾に入水自殺(西郷は蘇生)。《落葉塵芬集》《詠草》の著作がある。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「月照」の解説

月照 げっしょう

1813-1858 江戸時代後期の僧。
文化10年生まれ。大坂の人。京都清水寺成就院の住持。尊攘(そんじょう)運動にくわわり,安政5年梅田雲浜(うんぴん)らと水戸藩に密勅をくだすのに尽力。安政の大獄で幕府に追われ,西郷隆盛らと薩摩(さつま)へ逃亡。鹿児島藩から滞在を拒否され,同年11月16日西郷とともに錦江湾に身をなげた。46歳。俗名は玉井宗久。法名は忍鎧,忍向。号は中将房,無隠庵など。
【格言など】くもりなき心の月と諸共に沖の波間にやがて入りぬる(辞世)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「月照」の解説

月照
げっしょう

1813~58.11.16

幕末期の尊攘派の僧。大坂の町医玉井鼎斎(ていさい)の長男,のち京都清水寺成就院住職。1854年(安政元)住職を弟信海に譲り尊攘活動に入る。水戸藩の京都手入れ,密勅降下に関与し梅田雲浜(うんぴん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら志士と画策。そのため安政の大獄で身に危険が及び,近衛忠熙(ただひろ)のすすめで西郷隆盛と京都を脱出した。九州へ渡り鹿児島城下に入るが滞在を許されず,西郷とともに錦江(きんこう)湾で入水自殺した。西郷は助けられ蘇生した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「月照」の意味・わかりやすい解説

月照
げっしょう

[生]文化10(1813).大坂
[没]安政5(1858).11.16. 鹿児島
江戸時代末期の浄土真宗の僧で攘夷論者。京都清水寺の住職。俗名は玉井忍向。尊王攘夷運動を志し,寺を弟に譲って運動に身を投じた。吉田松陰,梅田雲浜,近衛忠煕,西郷隆盛らと交わり,安政の大獄を逃れて薩摩におもむいたが,藩が拒否したので西郷隆盛と錦江湾に入水自殺をはかり,隆盛は蘇生したが,月照は絶命した。

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世界大百科事典(旧版)内の月照の言及

【西郷隆盛】より

…1844年(弘化1)郡方書役助ついで郡方書役となり,その間,農政に関する意見書で藩主島津斉彬に見いだされて側近に抜擢され,一橋慶喜将軍継嗣問題で活躍,天下に広く知られるようになった。しかし,58年(安政5)大老井伊直弼の登場と斉彬の急死で窮地に陥り,同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが西郷のみ蘇生。そこで,菊池源吾と変名して奄美大島に潜居を余儀なくされた。…

※「月照」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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