江戸末期の志士、僧。讃岐(さぬき)(香川県)出身の大坂の町医玉井宗江の子に生まれる。幼名宗久。1827年(文政10)叔父清水寺(きよみずでら)成就院(じょうじゅいん)住職蔵海(ぞうかい)の下で得度。中将房忍鎧(介)(にんがい)、のち忍岡(にんこう)と改名、字(あざな)は月照、無隠庵(むいんあん)・一鋒(いっぽう)と号した。35年(天保6)成就院住職となり同院の復興に努めた。青蓮院宮(しょうれんいんのみや)、近衛忠煕(このえただひろ)ら堂上に出入りし、ことに忠煕に和歌を学ぶ。54年(安政1)住職を弟信海に譲り国事に奔走、58年梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと交わり攘夷(じょうい)の勅諚(ちょくじょう)を水戸藩に下すことに成功した。安政の大獄に際し西郷隆盛(たかもり)とともに鹿児島に行くが、薩(さつ)藩当局にいれられず、同年11月16日西郷とともに錦江(きんこう)湾に入水(じゅすい)。西郷は助かったが、月照は没した。墓は京都清水寺にある。
[芳 即正]
『友松円諦著『月照』(1961・吉川弘文館)』
(井上勲)
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幕末の僧侶,志士。諱(いみな)は宗久,通称忍向,月照は号。大坂の町医玉井鼎斎の長男。15歳で京都清水寺成就院に入り,23歳で住職となる。1854年(安政1)寺務を弟信海に譲り尊攘運動に挺身,水戸藩への戊午の密勅降下に尽力した。このため安政の大獄のさい追及を受け,西郷隆盛らに守られ薩摩藩に難を避けんとしたが入れられず,西郷と錦江湾に入水自殺(西郷は蘇生)。《落葉塵芬集》《詠草》の著作がある。
執筆者:山口 宗之
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1813~58.11.16
幕末期の尊攘派の僧。大坂の町医玉井鼎斎(ていさい)の長男,のち京都清水寺成就院住職。1854年(安政元)住職を弟信海に譲り尊攘活動に入る。水戸藩の京都手入れ,密勅降下に関与し梅田雲浜(うんぴん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら志士と画策。そのため安政の大獄で身に危険が及び,近衛忠熙(ただひろ)のすすめで西郷隆盛と京都を脱出した。九州へ渡り鹿児島城下に入るが滞在を許されず,西郷とともに錦江(きんこう)湾で入水自殺した。西郷は助けられ蘇生した。
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…1844年(弘化1)郡方書役助ついで郡方書役となり,その間,農政に関する意見書で藩主島津斉彬に見いだされて側近に抜擢され,一橋慶喜将軍継嗣問題で活躍,天下に広く知られるようになった。しかし,58年(安政5)大老井伊直弼の登場と斉彬の急死で窮地に陥り,同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが西郷のみ蘇生。そこで,菊池源吾と変名して奄美大島に潜居を余儀なくされた。…
※「月照」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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