有田村(読み)ありたむら

日本歴史地名大系 「有田村」の解説

有田村
ありたむら

[現在地名]有家町山川やまかわ蒲河かまが尾上おのえ

有家町ありえまち村の北に位置し、有家川が南流する。海辺集落の蒲河には鬼塚おにづか古墳があり、鉄剣が出土しているほか、今城いまじように鉄の精錬所とされる遺跡がある。山川の長田ながたでは鉄遺跡や石人(有家猿石)と称される遺物が発見されている。正平二三年(一三六八)一〇月日の有間澄世軍忠状写(藤原有馬世譜)に「長田村」とみえ、当村一分地頭の有間次郎三郎は空証判を得ているが、これはモンゴル襲来の際に軍功の賞として与えられた地で、「高木郡内長田の庄」と称していたという。長田墓地がある。同じく山川の力野りきの銭谷ぜんだになどには室町期の仏教遺跡が残り、銭谷に金剛こんごう院跡がある。尾上に室町期の板碑型塔婆や仏石が建つほか、今城には上堀内かみほりうち・堀・丸尾まるお東陣場ひがしじんばなどの地名が残り、中世の城館跡とされる。麓を流れる城代じようだ川は「ほり」と通称される。力野にキリシタン墓碑(県指定史跡)が二基(平形)、尾上の上桜馬場かみさくらばばに「慶長十二年丁未三月二十四日類子」と刻まれる平形墓碑など二基がある(うち一基は県指定史跡)。類子はルイスであろう。島原の乱後に山川の温泉神社などが復興されている。

江戸時代は島原藩領の南目筋に属する有家村のうち東筋(東方)にあたる。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に有家内として蒲河村二九五石余・尾上村二九〇石余・堀内村二四八石余・井上村(升ノ上村)二九八石余・池田いけだ村二〇三石余・山川村二二八石余がみえ、蒲河村の近くに番所とある。


有田村
ありだむら

[現在地名]千代田町有田

石井谷いしいだに村の北西に位置し、東流する志路原しじわら川と北東流するかんむり川が合流する氾濫原を中心に集落が展開。村内を石見浜田路が通る。村名は嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(新出厳島文書)にみえ、厳島社領壬生みぶ庄の一部として田畠・在家・山野などが記される。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高一一四九・二五七石。「国郡志下調書出帳」によればその後の地詰で一一四九・四五四石となる。ただし十日市とおかいちせと河原・乙熊おどくま河原・なじき河原など洪水による荒所ができ、古荒万高三五二・九九七石が計上されている。明知・給知入交じりで、安永元年(一七七二)までの免は上り詰四・〇五一、下り詰二・九、享保一七年(一七三二)の虫害凶作による秋免は〇・四五、安永二年より定免三・七五。同書出帳によれば、農業を主とする村で、入会野山四、腰林一一、請山三、用水井手一二、雨池八などがあり、「薪肥草至不自由之村故、冬より春の内は農業仕付の行相成候へば、薪・牛馬飼草等に山稼仕候、且又女子の分ハ木綿布抔銘々の着用だけ格別織のべ等の儀も出来不申候」とある。


有田村
ありたむら

[現在地名]早良区有田一―七丁目・有田団地ありただんち賀茂かも四丁目・室住団地むろずみだんち

小田部こたべ村の南、室見むろみ川右岸にあり、対岸は橋本はしもと(現西区)、東を金屑かなくず川が北流し、三瀬街道が通る。応永四年(一三九七)六月二五日の飯盛宮行事役屋敷注文案(牛尾文書/飯盛神社関係史料集)に有田村とみえ、飯盛いいもり(現西区)の祭礼行事役を負担する八宇の屋敷が書上げられている。永正三年(一五〇六)のものとみられる飯盛宮行事役屋敷注文写(青柳文書/飯盛神社関係史料集)には「有田分」として一二ヵ所(実際は一四ヵ所)の屋敷が書上げられ、このうち龍三郎りゆうざぶろう名・常丸つねまる名などは庄崎氏に宛行われており(年未詳「飯盛宮行事屋敷小田部村地頭名注文案」同上)、一五世紀後半有田村には庄崎氏の本拠地が置かれている(前掲屋敷注文写)


有田村
ありたむら

[現在地名]宮崎市有田

大淀川を挟み糸原村の南に位置し、本庄ほんじよう川が大淀川に合流する付近に立地する。諸県もろかた郡に属し、鹿児島藩領倉岡くらおか郷に所属。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳には、宮崎郡内に倉岡八〇町とは別に有田五町がみえる。慶長五年(一六〇〇)一〇月、宮崎城を攻め取った伊東勢は勢いに乗じて関ヶ原の戦から帰国途中の島津勢に合戦を挑み、同月三〇日には伊東勢は倉岡口・有田渡瀬口などに島津勢を追詰めている(日向記)


有田村
ありたむら

[現在地名]前原市有田・曾根そね

蔵持くらもち村の北に位置し、東は井田いた村、北は志摩しま波多江はたえ村。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文(「正任記」同月一八日条)に「怡土郡有田村」とみえ、飯田次郎右衛門入道の所領であった七町のうち五町が吉賀江匡安に、残りの二町が岩屋いわや(現太宰府市)在城料として郡司島忠経に与えられた。享禄五年(一五三二)有田筋目居屋敷が有田源三郎に与えられた(同年九月二〇日「木原盛連等連署状」児玉採集文書)。天文元年(一五三二)村内の権現社(現熊野神社か)に五反半が在城無難などを祈って寄進された(同年一二月一三日「源正員寄進状」雷山文書/太宰管内志)


有田村
ありたむら

[現在地名]益田市有田町

高津川の支流白上しらかみ川の水源地域で、長門国との国境。南は美濃地みのじ村、西は江崎えさき(現山口県田万川町)、北は二見ふたみ村。地名は山間部でも広い田野があることに由来する(石見八重葎)。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高二一九石余、寛永一四年(一六三七)の検地高三六一石余(万手鑑)。弘化元年(一八四四)中井両平は二見村境にある傾城けいせい峠を整備した。天保二年(一八三一)飯浦いいのうら村の海防普請場夫役の支払飯米を不当として百姓一揆が起こる。


有田村
ありだむら

[現在地名]甲奴町有田

上下じようげ川の支流抜湯ぬくゆ川の上流南側にある山間の村で、抜湯村の南に位置する。東は亀谷かめだに(現総領町)、南は福田ふくだ村に接する。伝えによれば、有田はもと有福ありふく庄に属する地で、有福の二字を分け、北を有田、南を福田としたという。しかし近世には田総たぶさ庄一二ヵ村の一で、田総庄が下地中分された折に付近の抜湯や安田やすだ(現双三郡吉舎町)などとともに地頭方に属したとも伝える。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では二四五石余であるが、以後増石して元禄一三年(一七〇〇)備前検地では三八一石余。


有田村
ありだむら

[現在地名]笠岡市有田

用之江もちのえ村の北にあり、西は備後国坪生つぼう(現広島県福山市)在田村とも記した(嘉永七年一枚刷備中国巡覧大絵図)。備後国境の清友きよともに縄文時代後期の有田貝塚がある。元和五年(一六一九)より備後福山藩領、元禄一二年(一六九九)からは幕府領、文政一〇年(一八二七)以降は三卿の一橋領となったと考えられる。寛永備中国絵図では高五七八石余、正保郷帳には枝村として田江村がみえる。元禄一三年の検地帳(笠岡市史編さん室蔵)では田高三五〇石余・畑高一五五石余、屋敷数三五(高一〇石余)、郷倉一。反別は田方二七町余・畑方二〇町二反で、田は中田が、畑は中畑が最も多い。


有田村
あんだむら

[現在地名]宮津市字滝馬たきば

宮津城下の西方、題目だいもく(二六六・三メートル)東南麓にある。

慶長七年(一六〇二)七月の宮津下村御検地帳(筑波大学蔵)にところ名の「有田」が載る。その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「下宮津有田村」一一六・八四五石と記される。同九年(一六八一)の延高により一六五・九四六石余、「内四斗九升、但シ之ハ米、大久保社分」となった(天和元年宮津領村高帳)


有田村
ありだむら

[現在地名]上中町有田・下タ中したなか

末野すえの村の西方、鳥羽とば川を挟んで立地。集落は鳥羽川右岸の有田と左岸東方の下タ中に分れる。丹後街道が下タ中集落を貫通し、有田の南端で鳥羽谷道と交差する。辻に「西小浜東はつるが南京 北鳥羽谷と知るべし」と記された道標がある。


有田村
ありたむら

[現在地名]明野町有田

桜川と観音かんのん川に挟まれた低地にあり、西は海老島えびがしま村。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は二二五石余。幕末は旗本山口氏領二〇〇石、堀田氏領一五石余、石原氏領一四石余、十二所じゆうにしよ神社領二石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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