佐賀県有田町を中心とする磁器窯で焼かれた色絵、染付(そめつけ)など。有田焼ともいう。有田窯の製品を伊万里焼と称するのは伊万里津が重要な積出し港であったからと思われ、開窯当初の1639年(寛永16)にはすでに文献にその名が現れる。地元の文献では江戸初頭の1616年(元和2)に朝鮮半島から帰化した陶工の李参平(りさんぺい)(和名は金ヶ江三兵衛)は有田町泉山に白磁鉱を発見し、初めて磁器窯をおこすことに成功したと伝える。古窯址(し)調査からも初期の製品はおおむねこの時期の様式(中国明(みん)代末期の染付磁器)を示しており、わが国では古染付とよばれている。
新興の磁器生産は肥前鍋島(ひぜんなべしま)藩の重要産業に急成長していくが、その発展に一大契機を与えたのは1659年(万治2)に始まるオランダ東印度会社の大量買付けであり、以後、伊万里焼は国内はもとより西欧でも大好評を博することになった。
その製品は染付に始まり、1640年ころには酒井田柿右衛門(かきえもん)が上絵付された白磁、いわゆる色絵(赤絵ともいう)を開発し、この二つが伊万里の支柱となった。ほかに青磁、天目(てんもく)、瑠璃釉(るりゆう)をも焼き、その作風の基本は中国風であったが、ほかに国内向けの茶道具や和様の器皿も焼いている。技術的にも生産量においても、最盛期は1690年から1700年にかかる元禄(げんろく)時代であり、その後は色絵に金彩を加えた伊万里金襴手(きんらんで)が登場して一世を風靡(ふうび)することとなり、17世紀の作風はすっかり下火になってしまった。世に石川県九谷(くたに)窯の製品とよばれる古九谷様式の色絵も、17世紀後半における有田窯の産である可能性がきわめて濃厚である。
明治時代に入ると有田窯は鍋島藩の支配を離れたが、引き続き海外輸出物で大いに潤った。現在でも工場による量産品と、工芸作家による工芸美術としての磁器とがあわせて焼造されている。
[矢部良明]
『西田宏子編『日本陶磁全集23 古伊万里』(1976・中央公論社)』
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江戸時代に,有田皿山といわれていた,現在の佐賀県有田町を中心とする地域で焼造された磁器。これを伊万里焼と称するようになったのは,12kmほど離れた,伊万里の港から国内各地へ積み出されたためという。1638年(寛永15)に松江重頼の著した《毛吹草》の中に,〈今利ノ焼物〉とみえ,今利または今里などと表されていたことがわかる。初期伊万里染付や古伊万里錦手といわれる色絵に,優れた作品が多い。
→有田焼
執筆者:西田 宏子
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佐賀県有田町近辺に広がる日本を代表する磁器窯とその製品。有田の製品だが伊万里港から出荷されたため,江戸初期から伊万里焼とよんだ。1616年(元和2)朝鮮の李参平(りさんぺい)が有田泉山に白磁鉱を発見し,白磁染付を焼き始めた。47年(正保4)以前に有田の酒井田柿右衛門が色絵を開発。59年(万治2)に大量にヨーロッパへ輸出され始め,国際的評価をえた。輸出用色絵は柿右衛門様式,国内向け色絵は古九谷様式とよばれる。元禄年間には華麗な金襴手(きんらんで)を完成して,国内外で大流行した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…佐賀県西松浦郡有田町を中心とする地域で,江戸時代の初めから焼きつづけられている磁器。江戸時代を通じて,伊万里港から諸国へ積み出されたので,一般に伊万里焼として知られている。有田焼は初期伊万里染付,古伊万里,柿右衛門,幕末伊万里染付などと分類し称せられているが,この区別は明確なものではなく,様式の変遷を大まかにとらえているにすぎない。…
…伊万里焼の創始者といわれる朝鮮人陶工。日本名を金ヶ江三兵衛といった。…
※「伊万里焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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