本山城跡
もとやまじようあと
本山の南西にそびえる田井山の北東尾根の先端部にあり、北に吉野川両岸に広がる平地部が眺望できる。戦国時代後期、本山郷を中心に嶺北一帯に勢力を伸ばした本山氏の居城。
本山氏の出自は、清和源氏吉良庶流の八木氏であるとか(南路志)、平氏で地名を負った者とか(土佐名家系譜)、諸説あるが八木氏説が有力で、平安時代末期に当地方に入り、吾橋庄の地頭職などを足掛りに成長したと考えられている。室町時代には守護代細川氏の被官として本山一帯の在地支配を確立したといわれる(本山町史)。戦国時代、本山養明は戦国諸雄と争うには不利な点の多い山間の本山から平野・港湾を求めて南に進出、文明一二年(一四八〇)頃には浦戸湾北西の江ノ口(現高知市)辺りまで進出していたらしい(編年紀事略)。
本山城跡
もとやまじようあと
[現在地名]中島町小浜 大串
小浜の南方大串にある城跡。泰山城と並び称される忽那家代々の城。
文治三年(一一八七)の築城という。「忽那嶋開発記」に「藤原兼平、忽那長者十郎号武者所(中略)本山城、文治三未年戦国筑」とみえる。南北朝期には惣領重清の弟で神浦館に住んだ義範が南朝方について活躍、興国三年(一三四二)河野通盛が忽那島に侵入した際も、本山城を根拠に通盛軍を撃退した。
本山城跡
もとやまじようあと
[現在地名]塩尻市大字宗賀 本山
本陣山の東にある。「信府統記」には掛上城とあるが今は本山城という。峻険な山城の頂上は東西二町、南北二町、その間に空堀・主郭・副郭・郭などがあり、主郭には石垣がある。
本山氏は奈良井氏の分れといわれ、木曾氏の松本口の備えとして築かれた。「信長公記」によれば天正一〇年(一五八二)二月木曾義昌は織田信長に内通したので武田勝頼は木曾の押えとして甲州から奈良井・贄川へ出兵した。
本山城跡
もとやまじようあと
[現在地名]熊本市本山町
現在の本山町字城の本一帯の白川自然丘陵上の小丘にあったと推定されるが、白川改修により旧地形はまったく失われた。詫磨別当太郎守直の居城跡と伝えられ、元弘年間(一三三一―三四)には詫磨別当宗直が在城していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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