小浜村(読み)おばまむら

日本歴史地名大系 「小浜村」の解説

小浜村
おばまむら

[現在地名]小浜町富津とみつ北野きたの北本町きたほんまち南本町みなみほんまち雲仙うんぜん北木指きたきさし南木指みなみきさし・マリーナ

現小浜町域中央部から北部にわたる村域で、西部は海に臨み、北東には雲仙山系がそびえる。島原街道が通り、地内の羽毛合はけあい村と脇道筋の温泉坂中に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。古くから雲仙岳を霊地とする山岳信仰の中心となる四面しめん(現温泉神社)満明まんみよう寺があり、また温泉の地として知られた。北部の富津の愛宕山頂に石祠があり、加久槌ノ神を祀る。同所の六角井戸は延暦九年(七九〇)に弘法大師が錫の杖で湧水を呼起したという伝承をもつ。一五七二年(元亀三年)頃に有馬義貞はオバマObamaで大村純忠に会い、伊佐早いさはやの西郷純尭が純忠を暗殺する計画があることを打明けたという。一五八四年(天正一二年)頃ドン・プロタジオ(有馬晴信)の支配下にあった。一五八九年のクリスマス前日、当地で薪のために切ったタラの木に十字架が現れ、これが都にも知れ渡って巡礼が訪れるようになったという。一五九一年加藤清正の主立った武将三人が有馬に来てオバマや有馬のおもな町村を見物したいというので、キリシタンの告発のために派遣された者かと神経をとがらせていた(フロイス「日本史」)。北野のハンネ屋敷跡はイルマンが居住して布教を行った地と伝え、また近くにキリシタン墓碑一基がある。慶長一九年(一六一四)小浜山中の岩窟に隠れていたキリシタンが平戸の兵により捕らえられて拷問を加えられ、うち小浜のジョアン平尾ハンザエモン(三五歳)千々石ちぢわ(現千々石町)のサルバドル平尾八郎(二二歳)の兄弟は殉教したという(パジェス「日本切支丹宗門史」)

江戸時代は島原藩領の西目筋に属する。慶長国絵図に「小浜」とみえ、高六千四〇石余。寛永四年(一六二七)から五ヵ年にわたって雲仙の地獄じごく谷でキリシタンに対する拷問が行われ、多数の殉教者が出たという。同七年島原城主松倉重政が小浜温泉で入浴中に急死、子の勝家の代にはさらにキリシタンへの弾圧が厳しくなった。同一四年に島原の乱が起きるが、小浜村では千々石村・小浜村・串山くしやま村の三村を管轄する代官高橋武右衛門が一揆勢に殺害されたという(「高来郡一揆之記」など)。当村の家数二四二・人数一千四〇六のうち家数二〇四・人数一千六七が一揆方に参加したとされ(島原一揆松倉記)はら(現南有馬町)に立籠った軍勢のなかで組織された談合人のなかに小浜村の久兵衛も含まれた(耶蘇天誅記)


小浜村
おはまむら

[現在地名]鳥羽市小浜町

鳥羽湾と池の浦いけのうら湾の中間に突出している小浜半島にあり、南は鳥羽町に接し、西は池の浦湾を隔てて度会わたらい松下まつした(現二見町)に接する。字済度院さいどいん・あて・せき・竹浜たけはま泉水浜いずみおはま長尾ながお日向ひなた島・かめの島に遺跡があり土師・須恵器片を出土し、せき古墳は径二〇メートル、高さ四メートルの円墳である。「和名抄」の伊勢国度会郡伊気いけ郷の地で現在の池の浦周辺である。「神鳳鈔」に「越浜」「伊介」とある。「外宮神領目録」には「伊介浮島御厨」とある。「建久三年皇太神宮年中行事」の六月一五日条に「小浜海士所進魚」とあり、古くから伊勢神宮の贄所であった。海産物の産地であるためか祭主大中臣隆実下文案(御塩殿文書)の元弘三年(一三三三)九月一〇日では志摩小浜の民、伊勢二見ふたみの民とが漁場を争ったので神宮祭主大中臣隆実がこれを裁定している。また応永七年(一四〇〇)三月九日の将軍足利義持家御教書(醍醐寺文書)によれば小浜郷は棚橋たなはし(現度会郡度会町)法楽寺領と記されている。

天文年中(一五三二―五五)小浜将監真宗が小浜城を築き、北畠氏に属していた。五世久太郎(景隆)のときに九鬼嘉隆の攻撃を受けて敗れ、三河に逃れて徳川家康の臣となった(志陽略誌)。「甲陽軍鑑」に「小浜左衛門尉景隆なる者もと伊勢北畠の家臣にて水軍に練達するを以て船将となれり」とある。天正一六年(一五八八)の度会郡小浜御検地帳(小浜漁協蔵)によれば石高は四二石五斗九升八合五勺、このうち四斗八升五合永荒とある。

近世を通じて鳥羽藩領で、答志とうし郡に属する。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高一〇七・一二石のうち浦役高七石、水主米高四〇・〇二六石が寛文四年(一六六四)から定引となっている。


小浜村
おばまむら

[現在地名]隼人町小浜

国分郷野久美田のくみだ村の西にあり、南は内海(鹿児島湾)に面する。西部小浜川沿いの小浜と東部の長浜ながはまからなる。海岸沿いを日向筋がほぼ東西に通る。保延元年(長承四年、一一三五)二月一日の宮永社役支配状(旧記雑録)の武内宮御修理役支配事に「小浜伍町捌段大 三尺三寸七分」、同宮御修理御遷時菓子注文事には「同西郷」宮永みやながのうちに「小浜 八合九夕」などとみえる。大隅国建久図田帳には桑西くわのさい郷の正宮(現鹿児島神宮)領のうち、国方所当弁田として小浜村八町がみえ、僧兼俊の知行とある。建長六年(一二五四)九月には御前検校永明が豊前宇佐弥勒寺寺家公文所により小浜村弁済使職に任じられた(「宇佐弥勒寺寺家公文所下文」鹿児島神宮文書)。建長七年に納められた同六年分の小浜村の年貢米は一二石三斗九升六合六夕であった(同七年八月二六日「小浜村年貢請取状」旧記雑録)。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には桑西郷のうちに小浜六町を記す。文和二年(一三五三)一〇月二六日のものと考えられる大隅国直冬方交名注文(旧記雑録)にみえる小浜十郎一族は当地名を名乗る武士とみられるが、出自等は不明。同年六月二一日の畠山直顕書下(同書)では小浜十郎氏純以下が凶徒(足利尊氏方)に内通したとしてその退治のための発向が命じられている。


小浜村
こばまむら

[現在地名]大原町大原

中魚落なかいおち郷のうち北東部に位置し、太平洋に臨み小浜浦がある。北境を塩田しおた川が東流する。中魚落郷を構成する一村で、元禄郷帳などには村名がみえないが、この頃には郷内三ヵ村は別々に高付されていた(森家文書)。宝永四年(一七〇七)の検地帳(荘司家文書)の表紙は中魚落郷大井谷村・寄瀬村・小浜村検地帳とあるが、当村分は失われている。当村と大井谷おおいやつ村の猟師らは長者ちようじや(現岬町)の平重郎の請負浦へ入会漁業をしていたが、不漁続きで浦入船金の支払いや借用金の返済を滞り、宝暦四年(一七五四)に評定所へ訴えられている(同文書)伊能忠敬は享和元年(一八〇一)七月当村に止宿しているが、「測量日記」に「大井谷村・寄瀬村・小浜村三ケ村組合」とあり、当村の家数四四一。


小浜村
くもーむら

[現在地名]竹富町小浜こはま

小浜こはま島と北東約一・六キロにある無人の嘉弥真かやま島を村域とする。両島絵図帳では古見くん間切の内に村名がみえ、高二七四石余。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時には石垣いしやなぎい間切に属し(八重山島年来記)、乾隆三三年(一七六八)以降宮良めーら間切に属した(与世山親方八重山島規模帳)。順治八年(一六五一)の人口一五二人(八重山島年来記)正保国絵図には島内道路として北西の屋崎(現アカヤ崎)から島中央部を縦断して南東きさす崎に至る道が描かれている。乾隆二年の調査報告(参遣状)によると村回り一四町余、東西一里二町余・南北二一町余、人口五四四人、風気はよく田畑も広く住みやすい。嘉弥真島は古くから無人島で、小浜島の百姓が仮小屋住いをして耕作していたため五戸ほどを移住させて小村を立てる計画があったが、乾隆一六年に申請は却下された(同書)


小浜村
こばまむら

[現在地名]神川町小浜

貫井ぬくい村の南西に位置し、南は児玉郡池田いけだ村、西は神流かんな川を隔て上野国緑野みどの牛田うした(現群馬県藤岡市)。天正八年(一五八〇)二月一七日の長井政実判物写(武州文書)によると、長井政実は金屋かなや塩谷しおや(現児玉町)などとともに「鳥方分内小浜かけ下」の一〇貫文の地を倉林越後守に宛行っている。

田園簿では田方四一七石余・畑方一〇九石余、旗本日向領。のち幕府領となり(風土記稿)、元禄一一年(一六九八)旗本堀親行に三四七石余、同野呂尚景に一八四石五斗余が分与され(「田畑名寄帳」山崎家文書など)、支配は同二家の相給として幕末に至る(改革組合取調書など)


小浜村
こばまむら

[現在地名]守山市小浜町

服部はつとり村の北西、野洲やす川北流左岸に位置し、琵琶湖に面する。「蔭涼軒日録」明応元年(一四九二)八月四日条・五日条に兵主ひようず郷内安楽あんらく寺領小浜庄がみえる。同庄は京都南禅寺の月翁(周鏡)知行在所で、庄内に奈良大安寺の契米二〇石分があり、旱水損にかかわらず大安寺が請負っていた。だが前年初めて水損を被ったため、契米を減じてくれるよう大安寺代官が蔭涼軒に申入れている。元亀元年(一五七〇)六月の野洲河原の戦いでは当地も合戦場となっている(「言継卿記」同年六月四日条)


小浜村
こはまむら

[現在地名]男鹿市船川港小浜ふながわみなとこはま船川港本山門前ふながわみなとほんざんもんぜん

男鹿半島の南西部、本山南麓に位置し、東の館山たてやま崎、西の潮瀬しおせ崎に挟まれた湾に面する。東に双六すごろく村、潮瀬崎を越えて西に支郷門前村がある。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「すこ六村 こはま村」合わせて二四石九斗二升、「金川村 椿村 はらい川村 本山村 沢村」として二六六石三斗三升三合とある。文禄三年(一五九四)の秋田実季神田寄進状(秋田藩家蔵文書)には小浜村として六石七斗九升八合、祓川として一三石一斗九升六合とあり、門前村は祓川はらいかわ村とよばれていた。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二三石と記載される。


小浜村
おばまむら

[現在地名]宇久町小浜郷おばまごう

宇久島の南部に位置し、福浦ふくうら川が流れる。南東部にさきがある。地内の長野ながのについて、天平一二年(七四〇)藤原広嗣が捕らえられた値嘉ちか島長野村に比定する説がある。同所に蝸牛形石積遺跡があり、カラマツサマと称される観音像が祀られ、これを元寇に関連する遺構とも、宇久氏が倭寇として活躍した時代の見張所の遺構ともいう(享保以降は祭場となる)。中世は小浜氏の勢力下で、応永二〇年(一四一三)五月一〇日の宇久浦中一揆契諾状案(青方文書)に「おはま」の道勝がみえ、当地を拠点とする者が一揆に加わっている。


小浜村
こはまむら

[現在地名]上那賀町小浜

那賀川上流の北岸山間部に位置する。文明八年(一四七六)六月一五日の仁宇郷公事銭注文(徴古雑抄)には中分のうちに小浜一貫三七〇文とある。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には村名がみえ、那西なさい郡に属した。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳、天保郷帳などに記載がなく、長安ながやす村の高に含まれたとみられる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高五四石余。「阿波志」によると水陸田九町七段余。旧高旧領取調帳でも五四石余ですべて蔵入地。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)によれば人数一一〇、うち男四九・女六〇・社人一。


小浜村
おばまむら

[現在地名]焼津市小浜

浜当目はまとうめ村の北に位置し、東は駿河湾に面する。益津ましづ郡に所属。江戸時代の領主の変遷はなか村と同じ。慶長九年(一六〇四)八月の山西益頭之内野秋村・小浜村御縄打水帳(野秋区有文書)が残る。元禄郷帳では高一〇〇石余。旧高旧領取調帳では高一〇二石余、うち塩釜しおがま社除地一石・海雲かいうん(現曹洞宗)除地一石。享保元年(一七一六)旗本大久保領の小浜・花沢はなざわ方野上かたのかみ坂本さかもと中里なかざと馬場ばんばの六ヵ村は花沢山の境界をめぐり岡部おかべ宿(現岡部町)と山論となり勝訴している(「証文」花沢区有文書)


小浜村
こばまむら

[現在地名]玉名市小浜

東境を菊池川が南へ流れ、北はなか村、野口のぐち(現玉名郡岱明町)、西南は滑石なめいし村に接する。文中元年(一三七二)一一月二六日の清源寺所司定文(清源寺文書)にみえる「合五段在所者浜、新開」は当地のこととされ、この新開はもとは妙性禅尼の高瀬清源たかせせいげん寺への寄進として築かれたが風波で荒廃し、永豪庵坊主正源が母の霊供料のために出した銭五貫文を新開鞆の修理に充てることとされている。

慶長一一年(一六〇六)の検地帳には「大野庄内浜村」とみえ、田一九町九反二畝・畠三町六畝余・屋敷二八筆、分米二六四石四斗余、家数七三・人数九五、牛一・馬八、下ケ名にあうむた・ひしや町などがある。


小浜村
こばまむら

[現在地名]富岡町小浜・中央ちゆうおう一―二丁目

富岡川河口の両岸の河岸段丘上にあり、南は仏浜ほとけはま村。反町そりまち一町坪いつちようつぼなど条里を想定させる地名が残る。領主の変遷は岩城氏領から慶長七年(一六〇二)磐城平藩領、延享四年(一七四七)幕府領、安永四年(一七七五)仙台藩預地、同六年幕府直轄領、天保七年(一八三六)以降棚倉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に「北江村こはま」とあり、高三八五石余。


小浜村
こはまむら

[現在地名]益田市小浜町

三里さんりが浜という長い海岸線の西端にあり、海岸のすぐ南は丘陵。小さな浜が突出している地形から村名がある。東は宮田みやだ村、西は二見ふたみ村。南部のつじ山山麓が海岸に迫り、東西に細長く集落が続く。東部は砂浜海岸だが、西部は岩石海岸である。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高二五石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一六石余(万手鑑)


小浜村
おばまむら

[現在地名]中島町小浜

忽那くつな(現中島)の東海岸の湾頭の村で、大浦おおうらの南に位置する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「小浜村 日損所、芝山有」とみえ、村高二一六石八斗六升八合、うち田一三九石九斗二升三合、畑七六石九斗四升五合とある。「伊予国風早郡地誌」に「初メ大浦村ト一村タリキ、天正年間干支不詳分テ両村トナリ」とあり、大浦との分離が近世であったことを記す。


小浜村
こはまむら

[現在地名]物部村小浜

押谷おすだに村の北東、槙山まきやま川沿いの村で、北東上流は根木屋ねきや村。北方は山を隔てて上韮生かみにろう川沿いの安丸やすまる村・五王堂ごおうどう村に接する。大忍おおさと庄槙山郷に属し、村名の起源は明らかでないが、応永二三年(一四一六)一二月五日付の沙弥道善譲状(岡内家文書)に「こはゝま壱名」とみえ、山内道善なる者の私領の一部であった。「小場間」とも書いた(小松文書)。天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳にはカンソウ村・日浦ノ村・谷口ノ村の計五筆に小浜分とある。これら三小村の地高総計は九反一五代、大部分が小浜二良大良給地とあり、彼は「小浜土ゐ」に住んでいたと思われる。

元禄地払帳によると本田高七・八石、新田高四八・二三三石で、本田はすべて蔵入地、新田は三五石余が貢物地で、残りは四名の領知。


小浜村
こばまむら

[現在地名]網野町字小浜

掛津かけづ村の西に位置し、北方は日本海に面する。東北は山岳を負い、東南面は開けてはなれ湖に臨む。

西隣の浅茂川あさもがわ村とともに、もとは南に位置する下岡しもおか村の地内で、慶長検地郷村帳に「下岡村之内浅茂川村・小浜村」とみえる。天和元年宮津領村高帳では、下岡村から分離、高付された浅茂川村八四三・〇五石のうちとして、三六八・六六石「小浜分」と記される。その後浅茂川村から分離、高付されたが(宝永二年「宮津領辻高帳」)、宝暦九年郷村帳では再び下岡村の枝郷とされている。宮津藩領として推移したが、下岡村または浅茂川村の内として寛文六―九年(一六六六―六九)、延宝八―九年(一六八〇―八一)、小浜村として享保二年―宝暦九年(一七一七―五九)は幕府領。


小浜村
おばまむら

[現在地名]いわき市小浜町・金山町かねやままち

太平洋に面して東端に竜宮りゆうぐう岬があり、西は岩間いわま村。文安三年(一四四六)七月五日の岩城清隆去状(上遠野文書)に「菊田荘いひのゝ郷・しらと方・たまやま方・おはまの郷・わたのへしミつの在家」が上遠野氏に去渡されている。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に小浜浦とあり、高一〇〇石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)にお浜村とあり、高二二一石余。正保郷帳では田方一八六石余・畑方三四石余。元禄郷帳では高二二三石余。


小浜村
こばまむら

[現在地名]泊村小浜

日本海に突出する尾後おじり鼻の西側に位置し、伯耆街道が通る。東は因幡国気多けた長和瀬ながわせ(現青谷町)で、因伯国境にあたる。「伯耆民談記」によれば国境まで一三町二八間、国境から長和瀬村まで三町二八間。拝領高七一石余、本免五ツ二分。寛永一〇年(一六三三)の地詰帳(泊村の歴史稿)によれば、役屋数五、うち四戸が塩浜を有した。


小浜村
こばまむら

[現在地名]温泉津町温泉津大字小浜

温泉津村の南、温泉津湾に注ぐ小浜川流域の山間に位置し、湾の南岸に波路はじ浦がある。中世は大家おおえ温泉ゆの郷を構成した温泉津のうち。「中書家久公御上京日記」の天正三年(一五七五)六月二五日条に「小浜」とみえ、島津家久らの一行は西田にしたの町から温泉津に着き、当地の神社の拝殿で休息して湯に入っている。のち出雲の男女童が集まり能などを行い、神舞・出雲歌を舞歌うのを見物し、当地のはたご屋に着いている。天正九年一〇月二四日の吉川経家覚書(吉川家文書など)に「小浜之内河きり一方」などとみえ、経家は鳥取城(現鳥取市)開城・自害を前にしてこれらの地の給付を要請するよう遺言している。


小浜村
こばまむら

[現在地名]加須市浜町はまちよう睦町むつみちよう二丁目・北小浜きたこばま

三俣みつまた村の東に位置し、北は手子堀てこぼり川、南はあいの川を境とする。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高六〇一石余・畑高三七五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領と旗本四家の相給。宝暦一三年(一七六三)以前に二七石余が久喜藩領となる(文久三年「米津家由緒書」学習院大学史料館蔵児玉氏収集資料など)。同年一部が下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、同藩領は幕末まで続く(同調帳など)。「風土記稿」成立時は旗本松平領・佐倉藩領・川越藩領。


小浜村
おばまむら

[現在地名]加須市南小浜みなみおばま

東は大室おおむろ村、南はそん落堀を境に油井ゆいしま村、北は新川につかわ用水路を境に下高柳しもたかやなぎ村、西は常泉つねいずみ村。騎西きさい領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高八一石余・畑高八二石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二六五石余、反別は田方一七町四反余・畑方一二町八反余、ほかに新開高一〇六石余、田方五町一反余・畑方五町三反余。


小浜村
おばまむら

[現在地名]銚子市小浜町

三崎みさき村の南西方にあり、南は屏風びようぶヶ浦に面する。西を磯見いそみ川が流れる。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に「小ばま」とみえ、さいあん寺・光明こうみよう寺・花蔵けぞう院・福寿ふくじゆ院・惣左衛門尉らが計九本の柑子木を植えていた。寛永四年(一六二七)旗本松平領となり、年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では小浜村一九八石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一九八石余で旗本松平・堀領。


小浜村
こばまむら

[現在地名]木更津市小浜・畑沢はたざわ二丁目

畑沢村の北、畑沢川右岸に位置し、西は江戸湾に面する。沿岸部まで山の迫った平地の少ない地形。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領注進状(金沢文庫文書)に「小浜」とみえ、他人の所領が混在する地であった。応永二四年(一四一七)八月に中山法華経寺の塔頭法宣ほうせん院院主日英から末寺講演職、「雁田小浜」などが弟子の千代寿竜丸と寅菊丸に譲られているが、「今乱」とあり、支配に動揺が起きていたようである(「日英末寺等支配注文」法宣院文書)周淮すえ(周准郡)のうちで、文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七一石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五四、旗本三枝領。


小浜村
こはまむら

[現在地名]鏡村小浜

くさみね村の東南にあり、吉原よしはら的淵まとぶち両川が当村で合して鏡川となる。「土佐州郡志」によると地頭分じとうぶん郷に含まれ「東限牧村、西限領家村川、南限大柿内村、北限大利村、縦横十五町」であった。

天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳に「コハマノ村」とみえ、地積二町六反余、うち田一町八反余・畠一反余・屋敷六反余で、屋敷九筆はすべて居屋敷。全村木浜(小浜)次郎兵衛の給地で、彼が居住する三九代の屋敷の隣地に「名本ヤシキノ前」の記載があるので、在地武士でありながら名本として作地を耕作していたことがわかる。同年の地頭分切畑地検帳によると次郎兵衛給の切畑五反余が別にあり、六代に大麦が植えられているほかはすべて小麦を植えている。


小浜村
こばまむら

[現在地名]原町市小浜

南東流して太平洋に注ぐ太田おおた川河口の北岸に位置し、西は米々沢めめざわ村。「奥相志」に「港あり。海浜平沙三町余、北の方は雫邑にいたり、断崖なり。邑に漁舟なし」とある。応永二年(一三九五)一〇月二一日の相馬憲胤譲状(相馬文書)に「目々須沢村付小浜桜浜」とみえ、憲胤の嫡子胤弘に当地などが譲与されている。正保郷帳では田方一六一石余・畑方四〇石余。明暦二年(一六五六)の高三五〇石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高二〇一石余。なお元禄検地高は五六五石余(奥相志)。天保郷帳では高三二四石余。


小浜村
ふばまむら

[現在地名]本部町備瀬びせなど

備瀬びし村の南にあり、康熙五年(一六六六)伊野波ぬふあ間切創設の後に新設された村という(南島風土記)。集落は現在の海洋博記念公園辺りに発達。里積記には備瀬・小浜と併記され、両村を合せた村位は田方が中、畠方が下。道光年間(一八二一―五〇)の前期、風害・旱魃に見舞われた際、備瀬村とともに松高良から援助を受けている(「球陽」尚王三一年条)


小浜村
こばまむら

[現在地名]豊橋市小浜町

橋良はしら村の南西に続く。古くは渥美湾の一部が村域の北一帯に湾入し、牟呂むろとの間は入海であった。海岸線はさらに東方に延びて橋良に至り、この旧海岸線上には貝塚がきわめて多い。神明社の境内も貝塚の一部である。

近世を通じて吉田藩領。享保一〇年(一七二五)の二川宿助郷帳(橋良文庫蔵)によると、村高五二九石のうち助郷高四〇七石で、二川ふたがわ宿まで二里。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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