日本歴史地名大系 「小浜村」の解説
小浜村
おばまむら
現小浜町域中央部から北部にわたる村域で、西部は海に臨み、北東には雲仙山系がそびえる。島原街道が通り、地内の
江戸時代は島原藩領の西目筋に属する。慶長国絵図に「小浜」とみえ、高六千四〇石余。寛永四年(一六二七)から五ヵ年にわたって雲仙の
小浜村
おはまむら
- 三重県:鳥羽市
- 小浜村
鳥羽湾と
天文年中(一五三二―五五)小浜将監真宗が小浜城を築き、北畠氏に属していた。五世久太郎(景隆)のときに九鬼嘉隆の攻撃を受けて敗れ、三河に逃れて徳川家康の臣となった(志陽略誌)。「甲陽軍鑑」に「小浜左衛門尉景隆なる者もと伊勢北畠の家臣にて水軍に練達するを以て船将となれり」とある。天正一六年(一五八八)の度会郡小浜御検地帳(小浜漁協蔵)によれば石高は四二石五斗九升八合五勺、このうち四斗八升五合永荒とある。
近世を通じて鳥羽藩領で、
小浜村
おばまむら
国分郷
小浜村
こばまむら
小浜村
くもーむら
小浜村
こばまむら
小浜村
こばまむら
- 滋賀県:守山市
- 小浜村
小浜村
こはまむら
- 秋田県:男鹿市
- 小浜村
男鹿半島の南西部、本山南麓に位置し、東の
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「すこ六村 こはま村」合わせて二四石九斗二升、「金川村 椿村 はらい川村 本山村 沢村」として二六六石三斗三升三合とある。文禄三年(一五九四)の秋田実季神田寄進状(秋田藩家蔵文書)には小浜村として六石七斗九升八合、祓川として一三石一斗九升六合とあり、門前村は
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二三石と記載される。
小浜村
おばまむら
小浜村
こはまむら
小浜村
おばまむら
- 静岡県:焼津市
- 小浜村
小浜村
こばまむら
- 熊本県:玉名市
- 小浜村
東境を菊池川が南へ流れ、北は
慶長一一年(一六〇六)の検地帳には「大野庄内浜村」とみえ、田一九町九反二畝・畠三町六畝余・屋敷二八筆、分米二六四石四斗余、家数七三・人数九五、牛一・馬八、下ケ名にあうむた・ひしや町などがある。
小浜村
こばまむら
小浜村
こはまむら
- 島根県:益田市
- 小浜村
小浜村
おばまむら
小浜村
こはまむら
元禄地払帳によると本田高七・八石、新田高四八・二三三石で、本田はすべて蔵入地、新田は三五石余が貢物地で、残りは四名の領知。
小浜村
こばまむら
西隣の
小浜村
おばまむら
小浜村
こばまむら
小浜村
こばまむら
温泉津村の南、温泉津湾に注ぐ小浜川流域の山間に位置し、湾の南岸に
小浜村
こばまむら
- 埼玉県:加須市
- 小浜村
小浜村
おばまむら
- 埼玉県:加須市
- 小浜村
東は
小浜村
おばまむら
- 千葉県:銚子市
- 小浜村
小浜村
こばまむら
- 千葉県:木更津市
- 小浜村
畑沢村の北、畑沢川右岸に位置し、西は江戸湾に面する。沿岸部まで山の迫った平地の少ない地形。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領注進状(金沢文庫文書)に「小浜」とみえ、他人の所領が混在する地であった。応永二四年(一四一七)八月に中山法華経寺の塔頭
小浜村
こはまむら
天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳に「コハマノ村」とみえ、地積二町六反余、うち田一町八反余・畠一反余・屋敷六反余で、屋敷九筆はすべて居屋敷。全村木浜(小浜)次郎兵衛の給地で、彼が居住する三九代の屋敷の隣地に「名本ヤシキノ前」の記載があるので、在地武士でありながら名本として作地を耕作していたことがわかる。同年の地頭分切畑地検帳によると次郎兵衛給の切畑五反余が別にあり、六代に大麦が植えられているほかはすべて小麦を植えている。
小浜村
こばまむら
- 福島県:原町市
- 小浜村
南東流して太平洋に注ぐ
小浜村
ふばまむら
小浜村
こばまむら
- 愛知県:豊橋市
- 小浜村
近世を通じて吉田藩領。享保一〇年(一七二五)の二川宿助郷帳(橋良文庫蔵)によると、村高五二九石のうち助郷高四〇七石で、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報