本所村(読み)ほんじよむら

日本歴史地名大系 「本所村」の解説

本所村
ほんじよむら

[現在地名]菊川町本所・青葉台あおばだい仲島なかじま

牛淵うしぶち村の西、菊川両岸域に立地し、上本所・下本所の二地区に分れる。隣接する半済はんせい村との間に双方の飛地がある。両村名とも庄園にかかわる地名。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書(落合文書)が本所に与えられている。慶長四年(一五九九)検地帳(同文書)があるが、欠落があるため一村全体の数値は不明。正保郷帳では田方四四三石余・畑方二二九石余、「日損」「松山」「芝山」の注記がある。


本所村
ほんじよむら

[現在地名]新潟市本所

なか興野の南、阿賀野川左岸に沿い、南は江口えぐち村。享徳年間(一四五二―五五)上杉憲実の遺臣鈴木・小畑・川崎・小池氏が帰農し、加賀国から来越して文明年間(一四六九―八七)当村を開発したと伝える。その後も加賀・能登方面から山田氏などが来住した。文明一三年本庄房長が当村に住したとされ、字たてうちは居館跡、字居浦の通称たい屋敷は家臣の住居跡と伝える。

新発田藩の慶長一七年(一六一二)の御蔵納同払方帳(新発田市史資料)に「本庄村」と記され、二七石九斗四升七合。正保国絵図では高一四〇石余。


本所村
ほんじよむら

[現在地名]栃尾市本所

守門すもん岳北西麓にあり、塩谷しおたに川の最上流にあたる山村。東と南は山並が続き、北は島田しまだ村、西は川を隔てて入塩川いりしおがわ村。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に塚田右京亮分としてみえる「本条」と思われる。元和六年(一六二〇)長岡藩知行目録に高七六石三斗余。寛政七年(一七九五)の栃尾組検地帳書抜(金内襄治氏蔵)によると、元和七年の検地では惣反別九町二反余(うち田六町三反余)、一〇四石六斗余。


本所村
ほんじよむら

[現在地名]掛川市本所

さか川の流域にあり、西は牛頭ごうず村・千羽せんば村、北は小原子こばらこ村。東海道が通る。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高三二六石余。元和五年(一六一九)以降は掛川藩領。正保郷帳では田方一八六石余・畑方七〇石余。享和二年(一八〇二)の村明細帳(落合家文書)では田方一九七石余・畑方六四石余、うち新田三〇石余、用水は村内の沢より取り、飲水は掘井戸・川水による。


本所村
ほんじよむら

[現在地名]見附市本所町・本所一―二丁目・学校がつこう町二丁目・月見台つきみだい一丁目

見附町の北。正保国絵図に村名がみえ、村松藩領。享保七年(一七二二)の本所組村々地方善悪帳(小林麗子氏蔵)では田二四町五反余。弘化三年(一八四六)の本所組年暦書上控帳(見附地方史研究会蔵)によると、延宝三年(一六七五)市野坪いちのつぼ村肝煎瀬兵衛の弟五兵衛が当村へ分家して、八郎兵衛跡の肝煎となっている。


本所村
ほんじよむら

[現在地名]吉田町本所・さいわい町・寿ことぶき

北は鴻巣こうのす村・宮小路みやこうじ村の耕地、南は西にし川を境に浜首はまくび村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録は高二三七石七斗余。慶安二年(一六四九)長岡藩の検地をうけ、江戸時代を通して同藩領。文政一三年(一八三〇)の長岡領分高附録(長岡の歴史)では二六八石八斗。安政五年(一八五八)の戸数は三一(「旧長岡城主牧野家領地七ケ組村名・反別・戸数一覧表」同書)


本所村
ほんじよむら

[現在地名]小浜市加斗かと

飯盛はんせい村の西、飯盛いいもり山の谷間が北へ向かって開き小浜湾に至る地域を占め、大飯郡に属した。海岸には加斗の松原がある。山裾の集落を上本所、平野部を下本所とよぶ。中世には加斗庄に属し、下地中分後、同庄の本所方に属したことによる地名と思われ、天文九年(一五四〇)三月一一日付武田信豊加判(粟屋カ)右京進奉下知状(飯盛寺文書)に「加斗庄本所」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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