本薬師寺(読み)もとやくしじ

改訂新版 世界大百科事典 「本薬師寺」の意味・わかりやすい解説

本薬師寺 (もとやくしじ)

680年(天武9)11月に皇后,後の持統天皇の病気平癒を祈って勅願によって営まれた官寺,薬師寺。現在,奈良県橿原市城殿町に金堂と塔の遺構が残っている。発願後直ちに造営工事が開始されたのかどうか明らかでないが,《七大寺年表》や《僧綱補任抄出》などには,天武天皇11年(682)に着工されたことをうかがわせる記事がみられる。持統天皇2年(688)正月の無遮大会が薬師寺で設けられたと《日本書紀》にみえるので,この頃に伽藍はある程度整ったものと思われる。710年(和銅3)の遷都にともなって,平城京右京六条二坊の地に移されたが,寺籍のみ移ったのか,伽藍そのものも移ったのか論争の的となっている。平城遷都後,本薬師寺と呼ばれるようになった。

 金堂前面の東西に塔を2基配置しており,薬師寺式伽藍配置の名はこの寺の名によっている。金堂基壇上には小堂が建っているので全容はわからないが,礎石が十数個原位置に残っており,桁行7間,梁間4間の規模に復原される。東塔跡の基壇上の礎石は1個が失われているのみで,心礎のほかに15個の礎石が残る。心礎上面には舎利孔がうがたれている。西塔基壇上には心礎が残るのみである。心礎の中心には出枘(でほぞ)が造り出されている。金堂や東塔の平面規模,東西両塔間の距離などは平城京薬師寺とほぼ一致する。しかし,平城京薬師寺にみられる裳階(もこし)の礎石は本薬師寺跡には遺存しない。双塔式伽藍配置は統一新羅影響によるものと考えられている。
薬師寺
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本薬師寺」の意味・わかりやすい解説

本薬師寺
もとやくしじ

平城京の薬師寺の前身飛鳥(あすか)時代、藤原宮大極殿(だいごくでん)跡の南西(奈良県橿原(かしはら)市城殿(きどの)町)にあった。飛鳥四大寺の一つ。薬師寺は680年(天武天皇9)天武(てんむ)天皇が皇后(後の持統(じとう)天皇)の病気平癒を祈願して建立を始め、天武天皇没後、持統・文武(もんむ)天皇の代まで工事が継続され、698年(文武天皇2)竣工(しゅんこう)された。平城遷都とともに718年(養老2)平城京の右京六条二坊(奈良市西ノ京町)に移されたため、飛鳥の寺を本薬師寺と称する。寺跡(特別史跡)の金堂と東・西両塔の土壇、礎石などによれば、西ノ京の現薬師寺と同型の伽藍(がらん)配置で、寺域は藤原京の右京八条三坊の二町四方を占め、左京の大官大寺と左右対峙(たいじ)する位置にあったことからもその重要性がうかがわれる。

[里道徳雄]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本薬師寺」の解説

本薬師寺
もとやくしじ

奈良県橿原市城殿(きどの)町にあった寺。680年(天武9)皇后鸕野讃良(うののさらら)皇女(のち持統天皇)の病気平癒を祈願して天武天皇が薬師寺の建立を発願した。その後,697年(文武元)仏像の開眼供養を行い,翌年には建築がほぼ完成して僧侶を住まわせた。710年(和銅3)の平城遷都にともない718年(養老2)薬師寺も京内に移され,以後,旧地は本薬師寺と称された。平城京の薬師寺の伽藍が当寺の堂塔の移建か新築か問題とされている。現在は金堂や塔の礎石が残存。寺跡は国特別史跡。

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百科事典マイペディア 「本薬師寺」の意味・わかりやすい解説

本薬師寺【もとやくしじ】

奈良県橿原市にある薬師寺の跡(特別史跡)。680年持統天皇の病気平癒を祈って藤原宮の近くに創建されたもので,平城遷都とともに薬師寺が西ノ京の現在地に移されてから本薬師寺と呼ばれた。金堂の礎石,東西両塔の跡が残っている。
→関連項目橿原[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本薬師寺」の意味・わかりやすい解説

本薬師寺
もとやくしじ

薬師寺」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の本薬師寺の言及

【寺院建築】より

…これら初期の仏殿は平面は比較的小さく,外観は二重屋根とし,内部は閉鎖的で,塼仏,壁画,仏具で荘厳された〈仏の聖域〉で人の立入りを許さなかった。7世紀末に藤原京で造営された本薬師寺は回廊内に両塔をもつ最初の伽藍で,金堂は正面幅が大きく,重層のそれぞれに裳階(層)(もこし)を付し,母屋は閉鎖的な聖域であった。三重塔も各重に裳階のある華麗で異国的な姿とされた。…

【心礎】より

…奈良県飛鳥寺,川原寺など飛鳥時代から白鳳時代の古い段階では,中心柱は掘立柱形式で,心礎は地中深く埋められている。7世紀後半の本薬師寺の心礎は,東西両塔とも地上に露出しており,この頃から以降は,地上の心礎が一般的となっていったようである。朝鮮でも,百済の古い段階に創建された扶余の軍守里廃寺や金剛寺では地下式心礎であるが,創建の下る弥勒寺は地上式心礎である。…

【奈良時代美術】より

…飛鳥様式をよく残しているとされるが,伽藍配置,軒の平行角垂木や一部の構造,軒瓦の文様などは白鳳形式である。天武天皇の発願による薬師寺(本薬師寺)は藤原京の条坊にあわせて伽藍が計画され,回廊内に各層に裳階(もこし)をもつ華やかな金堂と東西両塔を置いた。配置は唐にならったとみられるが,唐での実例は知られず,当時親善関係にあった新羅に先例がある。…

【薬師寺】より

…680年(天武9)天武天皇が皇后の病全快を祈って建立を発願し,持統天皇を経て698年(文武2)藤原京に創建を終わったが,710年(和銅3)の平城遷都にともない,718年(養老2)に平城右京六条二坊に移建された。これが現在の薬師寺であり,旧地(現,奈良県橿原市)を本(もと)薬師寺という。移転後の伽藍地は東西3町,南北4町にわたり,金堂,東西両塔,講堂をはじめ,三面僧坊,経楼,食堂(じきどう)や大炊院,温室院,苑院があり,いわゆる薬師寺式伽藍配置の典型を示していた。…

※「本薬師寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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