本郷城跡(読み)ほんごうじようあと

日本歴史地名大系 「本郷城跡」の解説

本郷城跡
ほんごうじようあと

[現在地名]飯島町大字本郷 本郷三

村の南端にあり、木曾山脈の麓から東流する与田切よたぎり川の扇状地の右翼南端に位置し、東は数段の段丘を下って天竜川に臨み、南は子生沢こおみざわ川に浸食された深い谷となっている。

城域は天竜川右岸の標高五四四メートル、比高三三メートルの古城ふるしろから、西北方数段の段丘を登った標高六三五メートルの臨済宗西岸せいがん寺に至る広範囲に及んでいて、本城跡のある最高段丘崖下を南北に古い街道が通っている。

飯島氏の本拠で、中世を通じ飯島郷を支配していた。「尊卑分脈」によると、片切源八為基の孫の為綱が「信州岩間飯島祖」となっており、飯島氏系図によると、船山ふなやま城(現中川なかがわ村)主片桐為行の三男為綱が飯島氏の祖となり、その孫の為弘が岩間いわまに移り住んで岩間氏の祖となったとある。


本郷城跡
ほんごうじようあと

[現在地名]池田町本郷

本郷集落の西部にある中世の城館跡。池田城ともよばれ、土岐氏の居城であった。現在遺構はわずかに土塁・堀跡を残すのみだが、昭和一一年(一九三六)の調査などによれば、土居をめぐらした本丸は方二〇間、本丸の北西隅には方四間の石垣をもって築いた天守櫓があり、本丸を囲む形で二の丸が、さらにその外側を幅二間ほどの堀がめぐっていた。一般にのちの守護土岐頼忠の創築とされ、当地池田庄の名をとって池田氏を称したという。「新撰美濃志」「揖斐郡志」などによれば、子の頼益は一時期尾張に移るが、再び美濃に戻り、守護として革手かわて(現岐阜市)に住した。


本郷城跡
ほんごうじようあと

[現在地名]日進町本郷 鴻土

県道瀬戸―大府線の西側にあった二一間四方の平城の跡。城跡を含む東南元屋敷もとやしき、北方を城北しろきたと称し、城前しろまえしろのわきなどの地名があり、大正年間(一九一二―二六)までは東・北・南三方の土塁跡が水田の間にあった(愛知郡誌)。文亀三年(一五〇三)丹羽氏員が築いて折戸おりど城から移り、子氏興・孫氏清と三代続いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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