小説家。東京生まれ。幼少時より児童劇団に入団して舞台、ラジオに出演の経験をもつ。小学生のころから父親の蔵書の夏目漱石、森鴎外などを読む早熟な少女だった。1943年(昭和18)駒沢高等女学校(現、駒沢女子大学)卒業後、仏教系の千代田女子専門学校に入学し、国文学を専攻、世阿弥を研究するかたわら謡曲、仕舞、鼓を習う。翌年中退して、内務省防空研究所に務めるが、1947年(昭和22)文化学院文科に入学、続けて世阿弥を研究し1949年卒業。
1951年初めて書いた小説「申楽(さるがく)新記」が『サンデー毎日』100万円懸賞小説に3席入賞。翌年「燐の譜」が同誌の第42回大衆文芸賞に入選する。このとき選考委員だった吉川英治が好意的な評を寄せてくれたことに感激し、師事を願う手紙を書いたところ、吉川もこれを快諾。以後、唯一の女性門下生として吉川のもとで文学修業に励むが、師の指示により10年間は作品を一切発表しなかった。1961年、吉川の許可を得て、その紹介により初めて商業誌『別冊週刊朝日』に「柿の木の下」を発表。同年には処女創作集『船と将軍』を刊行する。この10年間の精進は、杉本の内部に文学的蓄積と、歴史へ切り込む眼力を養うのに役立ったといえる。その努力は1962年初の書き下ろし長編『孤愁の岸』で第48回直木賞を受賞して早くも実を結ぶ。だが、師である吉川は作品の完成の1か月前に死去。受賞の喜びをともに味わうことはついにかなわなかった。
同作は、木曽、長良(ながら)、揖斐(いび)の濃尾三川の宝暦治水にあたった薩摩藩士の苦しみと悲劇を描いたものだが、それはまた作者の戦争体験と重なり合う部分も多く見られた。国もとから遠く離れ、異境の地にあって、いつ終わるともしれない難工事に従う若者たちの苦衷は、戦中世代の青春と重なるものがあったのだ。国家の要請に応えることを強いられた人々の苦しみを歴史のなかで探っていく、それがこの作品のモチーフであった。同時にその思いは、20歳のときに敗戦を迎えた作者の信念にも繋がっている。「私たちの世代は、ちょうどそれぞれに未来図を模索し出す青春期にさしかかったにもかかわらず、個々の幸福をまったくと言ってよいほど、願っていなかった気がする。(中略)個人の幸せが、国の理念や大義と結びつくところに達成されるのだとしても、それを手にするのは次代の者たちであり、自分たちは甘んじて、そのための、“捨て石”にならねばならないと信念していた」(随筆集『片方の耳飾り』(1979)所収「捨て石の世代」)。
こうした「捨て石の世代」としての青春の体験と思いが、杉本の歴史観に見事に照射されている。作者の小説は、デビュー当時から一貫して大半が史実にもとづいた作品である。その史実のなかで空想力を駆使し、歴史上の人物の側面にスポットを当てて新しい解釈と意義づけを加えてゆく。作者自身も、歴史小説はまず良質の史料の選定をし、骨組みを確立することから始めねばならないと語っているが、それを巧みに処理して、史料の行間に想像の余地を発酵させる作業が杉本の真骨頂といえるだろう。それゆえ、彼女の作品は武士もの、芸道もの、王朝もの、江戸市井(しせい)もの等々、モチーフの幅が広いことも特徴になっている。
直木賞受賞後も着実に作家としての地歩を固めていった杉本は、1977年『滝沢馬琴』で師の名前を冠した吉川英治文学賞を受賞。続いて1986年、長屋王一族の滅亡から大仏開眼にいたる歴史の転換期を描いた『穢土荘厳(えどしょうごん)』により女流文学賞を受賞する。1987年紫綬褒章、2002年(平成14)文化勲章受章、1995年度文化功労者、2002年菊池寛賞受賞。
[関口苑生]
『『船と将軍』(1961・雪華社)』▽『『孤愁の岸』(講談社文庫)』▽『『片方の耳飾り』(中公文庫)』▽『『滝沢馬琴』『穢土荘厳』(文春文庫)』
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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