中国,明の文人。字は献吉,空同子と号す。甘粛慶陽の人。弘治6年(1493)の進士。劉瑾(りゆうきん)を弾劾して投獄されたが,劉瑾の失脚後,1511年(正徳6)に江西提学副使となった。何景明,徐禎卿らと〈前七子〉あるいは〈正徳の七子〉と称せられる(七子)。〈文は秦漢,詩は盛唐〉を標榜して,模範とする時代と人とに似せて作ることによって,文学の“格調”を得られると説いた。江西提学副使のとき,何景明と手紙で論争し,李夢陽は古めかしい表現の文学を理想とし,何景明は新しくみずみずしい表現の文学を理想とした。その論を〈格調説〉と称する。杜甫を理想として作った詩には,奔放に自己のなげきを打ちだしたロマンの詩があって,読む人の胸をうつ。〈石将軍戦場歌〉などはその一例。
執筆者:横田 輝俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、明(みん)中期の詩人。字(あざな)は献吉(けんきつ)。号は空同。慶陽(陝西(せんせい)省)の人。1493年(弘治6)の進士。官僚としては、その直情径行のゆえに、至る所で衝突し、何度も投獄、左遷されたが、そのためますます有名になった。文学では、李東陽の門人としてその影響を受け、彼の主張をより鮮明にした復古主義を呼号とした。前七子(ぜんしちし)の指導者として、詩文壇を秦(しん)漢の文、盛唐の詩を最高の規範とする運動に巻き込み、以後100年の文学はすべて、この潮流に支配されてしまう。しかしあげくのはては、表面的な古人の模倣に陥り、雄渾(ゆうこん)壮大な措辞もしばしば観念的で、空疎な響きをもつと評される。著に『空同集』がある。伝は『明史』文苑(ぶんえん)伝二に記される。
[福本雅一]
『吉川幸次郎著『中国詩人選二集2』(1963・岩波書店)』
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…1502年(弘治15)20歳で進士となり,中書舎人,吏部員外郎,陝西提学副使を歴任。李夢陽(りぼうよう)らと〈前七子〉(七子)の一人に数えられ,古文辞を唱導した。1511年(正徳6)ごろ李夢陽の模擬に過ぎる作風を批判し,清新な独創の文学を主張した。…
…後漢末の〈建安の七子〉(建安文学)と明代の〈前七子〉〈後七子〉が有名。前七子は明の弘治年間(1488‐1505)に李東陽に抜擢(ばつてき)されて進士となり,正徳年間(1506‐21)に北京で活躍した李夢陽(りぼうよう),何景明,王九思,辺貢,康海,徐禎卿,王廷相の7人の文人である。秦漢の文,盛唐の詩を文学の目標として,明の永楽年間(1403‐24)以後の文壇の沈滞と低迷を打破した。…
…あたかも書道における往古のどの名筆を習うべきかの議論に似ている。 明の中期(16世紀前半)の李夢陽(りぼうよう),何景明らの前七子は唐詩の至上をとなえ,同じ世紀の後半李攀竜(りはんりゆう),王世貞らの後七子はその説をさらにおし進めた。《唐詩選》はこの派の教科書であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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