中国,五代南唐の最後の国主。在位961-975年。字は重光。南唐後主,李後主とも呼ばれる。歌辞文芸,詞の作者として有名。10世紀の中国は地方政権が乱立するが,南唐は今の南京を都とし,長江(揚子江)下流一帯を占めて富強を誇った。李煜はその3代目の風流君主で,詩文書画に秀で,また書画の鑑識と収集,筆墨硯紙の趣味の洗練など,のちの文人文化に大きな影響を及ぼした。しかしその国はやがて宋に滅ぼされ,幽閉されて卒した。唐代に起こった詞という新しい歌辞文芸を好み,宮廷生活を優雅に詠じていたが,幽閉されてのちの作は沈痛淒絶の調べに満ち,空前絶後の名作といわれる。〈虞美人〉〈浪淘沙令〉などの詞が特に有名。もと通俗歌謡にはじまる詞は,宋代になると抒情的韻文として流行するが,その過程において李煜の存在は重要である。父の南唐中主,李璟(りえい)も数は少ないが優れた詞を残しており,2人の作を併せた《南唐二主詞》がある。
執筆者:村上 哲見
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中国、五代南唐の亡国の国主。後主(こうしゅ)と称される。初め従嘉(じゅうか)といったが、のちに煜に改めた。字(あざな)は重光。中主李璟(りえい)の第6子。961年(宋(そう)、太祖の建隆2)中主が没するとただちに即位、在位15年ののち、975年宋に下り、宋都汴京(べんけい)に幽閉され虜囚の生活を送った。978年(太平興国3)7月7日、42歳の誕生日に毒を盛られて殺された。若くして詩文、書画、音楽に通じ、わけても詞を得意とした。亡国前の作品は、愛の姿を天真爛漫(らんまん)に歌ったものが多い。幽閉後は深い望郷の思いと亡国の恨みを、せつせつと歌い上げた不朽の作が多く、詞の新生面を切り開いた功績はきわめて大きい。詞は李煜の作品とあわせて『南唐二主詞』に収められる。
[青山 宏]
『村上哲見注『中国詩人選集16 李煜』(1959・岩波書店)』
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…韓熙載は字を叔言,濰州(いしゆう)北海(山東省濰県)の人。後唐で進士となったが,父が明宗に誅殺されたため,南唐にのがれて三主に仕え,後主李煜(りいく)のとき中書侍郎にいたって卒した。李煜は,門弟,妾妓に囲まれ歌舞に身をやつしてはばからない韓熙載を責めいったん左遷したものの,その底にある意図を知って再び起用せざるをえない状況に追いこまれていた。…
…文房四玩とか,文房四友あるいは文房四侯ともいう。中国で文房具に特に興味をもち出したのは漢代までさかのぼるようであるが,10世紀初期,五代の南唐の中主(李璟(りえい)),後主(李煜(りいく))という風流天子が出て,李廷珪(りていけい)の墨,澄心堂紙などの高級品をつくらせて,文房具は空前の発達をみ,中国人の文房具趣味を促した。さらに10世紀後半,北宋の高官蘇易簡(そいかん)は,《文房四譜》(《文房四宝譜》ともいう)5巻を著し,筆譜2巻,硯・墨・紙譜各1巻,それに筆格,水滴をつけ加えて解説をほどこした。…
…ところが羅漢(らかん)の打ち鳴らす鐘声に救われ,ついに無限の苦しみから解放されたという。中国,南唐の後主李煜(りいく)は,死からよみがえった男に,地獄で先主李昪(りべん)と出会った話を聞く。先主は在世中の罪によって地獄で苦しみ,鐘を鳴らして救ってほしい,できれば新たに鐘を鋳てほしい,そう頼まれたことを伝える。…
※「李煜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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