デジタル大辞泉
「毛利敬親」の意味・読み・例文・類語
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もうり‐たかちか【毛利敬親】
- 幕末の大名。長州藩主。号は誠斎など。文武を奨励し、明倫館を再興した。文久三年(一八六三)攘夷決行を期したが、翌年禁門の変を起こして官位を奪われた。明治維新で参議、版籍を奉還して山口県知事となった。文政二~明治四年(一八一九‐七一)
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毛利敬親
没年:明治4.3.28(1871.5.17)
生年:文政2.2.10(1819.3.5)
幕末維新期の長州(萩)藩主。名は教明,敬親,慶親。猷之進,大膳大夫と称す。前藩主斉元の長子に生まれ,天保8(1837)年藩主斉広の養子となり,家督を継いだ。実はいわゆる末期の養子であった。同9年,入国し,村田清風を登用して,天保の改革を行い,その後,村田と対抗する坪井九右衛門をも藩政改革に登用した。ペリーの来航した嘉永6(1853)年に相模を警衛し,安政5(1858)年兵庫警衛に転じた。同年,通商条約についての幕府の諮問に,坪井を退けて村田の薫陶を受けた周布政之助らを登用し幕府の外交方針に反する攘夷意見を提出,安政の大獄前,朝廷から密勅が渡されたが,密かに派遣された周布は一転,開国やむなしと説いた。以後は周布を重用し,藩是三大綱を立て,藩の自律を方針とし,洋式軍制を導入するなど改革に着手する。文久1(1861)年長井雅楽を用い,航海遠略策の開国策で幕府との協調策を執るが,周布や木戸孝允らの反対と,島津久光の率兵上京で破綻し,同2年,周布や木戸の主導による攘夷方針に大きく転換した。敬親は公平な性格と評される一面,また病弱で藩内抗争の行方を追認する傾向があった。藩庁を山口に移し,文久3年5月外国艦を砲撃し,藩勢飛躍したが,同年8月18日の政変で藩は京都を追われ,翌年,禁門の変にも敗れ,官位を剥奪された。第1次長州征討が始まると,旧政府員多数を処刑して,謹慎した。しかし,藩内での元治の内戦後,木戸を中心とする割拠体制をつくり,薩長同盟を結び,洋式軍制改革に成功し,慶応2(1866)年の幕長戦争に勝った。同3年,キング提督と会見するなど,イギリスとの関係を確保し,討幕の密勅を受け,薩摩藩らと共に藩兵を上京させ王制復古のクーデタを成功させる。明治2(1869)年,薩摩藩主,土佐藩主らと版籍奉還を建白したのち家督を元徳に譲り,隠居。諡は忠正。<参考文献>末松謙澄『修訂防長回天史』
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毛利敬親 (もうりたかちか)
生没年:1819-71(文政2-明治4)
幕末の長州藩主。はじめ教明,慶親と名のり,のち敬親と改める。大膳大夫と称した。諡(おくりな)は忠正公。1837年(天保8)家督を継ぎ,村田清風を登用して天保藩政改革を推進した。61年(文久1)佐幕的開国策の航海遠略策を採用してみずからも運動したが,翌年,島津久光の率兵上京や幕政改革によって藩論を転換させざるをえなくなった。ただちに入京し,敬親臨席のもと木戸孝允や周布(すふ)政之助らの家臣と会議を開き,尊王攘夷の藩論と単独攘夷実行を決定した。63年下関でアメリカ商船などを砲撃して攘夷を実行したが,8月18日の政変で京都に勢力を失い,再起を期した禁門の変に敗れて官位・称号を奪われた。67年(慶応3)大政奉還後,官位を復し,69年(明治2)薩摩,土佐,佐賀藩と版籍奉還を奏請し,権大納言に任ぜられた。同年中に隠退して山口藩知事の職を子元徳に譲った。
執筆者:井上 勝生
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毛利敬親
もうりたかちか
(1819―1871)
幕末維新期の大名。長州藩13代藩主。幼名猷之進(みちのしん)、名は初め慶親(よしちか)。11代藩主斉元(なりもと)の嫡子として出生。12代藩主斉広(なりとお)(10代斉煕(なりひろ)の子)が若年で死去したため、1837年(天保8)藩主となる。敬親は村田清風(せいふう)を抜擢(ばってき)し、38年から天保(てんぽう)の改革を実施する。これは31年の防長大一揆(いっき)の後を受け、藩政全般にわたる改革を実施し、富国強兵策を実現しようとするものであった。この改革は成果をあげ、藩財政は立ち直り、藩府要員のなかにも周布政之助(すふまさのすけ)などの人材が育った。63年(文久3)他藩に先駆けて攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)で外国船を砲撃する。しかし、64年(元治1)京都禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗退し、幕府の征長令を受け、官位・称号を奪われる。そこで諸隊を解散し、家老を処罰して恭順の意を表す。しかしながら藩内では討幕派が主導権を握り、65年(慶応1)には幕府軍を藩の四境(しきょう)で打ち破り、討幕派の先鋒(せんぽう)となる。69年(明治2)山口藩知事となるが、71年病死。
[広田暢久]
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毛利敬親
もうりたかちか
[生]文政2(1819).2.10.
[没]明治4(1871).3.28. 山口
幕末の長州藩主。斉元の長子。幼名,猷之進。初め教明,慶親と称した。天保8 (1837) 年4月襲封。村田清風を重用して藩政改革に尽力。砲台建設,種痘奨励など洋式技術の導入にも意を用いた。文久1 (61) 年長井雅楽 (うた) をして朝幕間の合体を策したが成功せず,攘夷派公卿らと結んで京都における薩摩藩の勢力をくつがえすため破約攘夷を藩論とし,上洛して攘夷親征の挙に出ようとしたが,文久三年八月十八日の政変で失脚,朝譴をこうむり官位を奪われた。王政復古により復官,明治2 (69) 年版籍奉還の提唱者となった。山口藩知事を世子に譲って退隠。
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毛利敬親
もうりたかちか
1819.2.10~71.3.28
幕末期の大名。長門国萩藩主。父は11代斉元。1837年(天保8)12代斉広の養子となり,家督相続。村田清風を登用して,天保改革を推進させたが,のち坪井九右衛門を登用。両派の交替のなかで藩政を運営。61年(文久元)長井雅楽(うた)の航海遠略策を採用。公武合体を推進するが,松下村塾出身者の発言が強まり尊王攘夷論に転換。63年山口に藩庁を移した。同年8月18日の政変,禁門の変,四国連合艦隊の下関砲撃,長州戦争などの難局を適切な人材の登用で切り抜け,明治維新に一定の役割をはたす。
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毛利敬親 もうり-たかちか
1819-1871 江戸時代後期の大名。
文政2年2月10日生まれ。毛利斉元(なりもと)の長男。天保(てんぽう)8年(1837)長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利家13代となる。村田清風を起用して藩政を改革,富国強兵策をすすめる。文久3年周防(すおう)山口に藩庁をうつす。四国艦隊下関砲撃事件,禁門の変,第1・第2次幕長戦争などの難局を人材の登用によってきりぬけ,維新の功労者となった。明治4年3月28日死去。53歳。初名は慶親。諡(おくりな)は忠正公。
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毛利敬親
もうりたかちか
1819〜71
幕末の長州藩主
別名慶親 (よしちか) 。1837年家督を継ぐ。村田清風らを登用し,藩政改革を行い,雄藩藩主として重きをなす。初め公武合体策,のち藩論が尊王攘夷に転じると尊王攘夷運動の中心におしたてられた。'64年の禁門の変,第1次長州征討では敬親父子は官位を奪われ謝罪したが,薩長連合以後,討幕の中核となり,'67年10月14日,薩摩藩主とともに討幕の密勅をうけた。新政権発足後の '69年,薩摩・土佐・肥前3藩主とともに率先して版籍を奉還し,山口藩知事となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
毛利敬親
萩藩の13代目藩主です。江戸時代の終わりごろ、借金の多くなった藩の財政を立て直すための改革(天保改革[てんぽうのかいかく])を行いました。養子の毛利元徳[もうりもとのり]とともに、幕末維新の萩藩の難しいかじとりにあたりました。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
毛利 敬親 (もうり たかちか)
生年月日:1819年2月10日
江戸時代;明治時代の萩藩主
1871年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の毛利敬親の言及
【防長風土注進案】より
…長州藩が天保改革を推進するため,領内の実態の把握を試み,全町村から差し出させた明細書。藩主毛利敬親(たかちか)は領内全域の町村に明細書の提出を求め,当職所に国郡志御用掛を置き,1842年(天保13)[近藤芳樹]にその編纂を命じた。本文395冊,古文書45冊。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」