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毛利敬親 もうり たかちか

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美術人名辞典の解説

毛利敬親

江戸後期の萩藩十三代当主。斉元の子。幼名は猶之進。諡名は忠正公。村田清風等を登用して藩内の弊風を一掃し、富国強兵への改革を推進した。のち薩摩・土佐・肥前藩主と連署して版籍を奉還し、従二位に進み権大納言に任じられる。明治4年(1871)歿、53才。

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デジタル大辞泉の解説

もうり‐たかちか【毛利敬親】

[1819~1871]江戸末期の長州藩主。村田清風を登用して藩政を改革。尊王攘夷を主張し、蛤御門(はまぐりごもん)の変では敗れて官位を剥奪されたが、のち薩摩と結び、倒幕を実現。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

毛利敬親 もうり-たかちか

1819-1871 江戸時代後期の大名。
文政2年2月10日生まれ。毛利斉元(なりもと)の長男。天保(てんぽう)8年(1837)長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利家13代となる。村田清風を起用して藩政を改革,富国強兵策をすすめる。文久3年周防(すおう)山口に藩庁をうつす。四国艦隊下関砲撃事件,禁門の変,第1・第2次幕長戦争などの難局を人材の登用によってきりぬけ,維新の功労者となった。明治4年3月28日死去。53歳。初名は慶親。諡(おくりな)は忠正公。

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朝日日本歴史人物事典の解説

毛利敬親

没年:明治4.3.28(1871.5.17)
生年:文政2.2.10(1819.3.5)
幕末維新期の長州(萩)藩主。名は教明,敬親,慶親。猷之進,大膳大夫と称す。前藩主斉元の長子に生まれ,天保8(1837)年藩主斉広の養子となり,家督を継いだ。実はいわゆる末期の養子であった。同9年,入国し,村田清風を登用して,天保の改革を行い,その後,村田と対抗する坪井九右衛門をも藩政改革に登用した。ペリーの来航した嘉永6(1853)年に相模を警衛し,安政5(1858)年兵庫警衛に転じた。同年,通商条約についての幕府の諮問に,坪井を退けて村田の薫陶を受けた周布政之助らを登用し幕府の外交方針に反する攘夷意見を提出,安政の大獄前,朝廷から密勅が渡されたが,密かに派遣された周布は一転,開国やむなしと説いた。以後は周布を重用し,藩是三大綱を立て,藩の自律を方針とし,洋式軍制を導入するなど改革に着手する。文久1(1861)年長井雅楽を用い,航海遠略策の開国策で幕府との協調策を執るが,周布や木戸孝允らの反対と,島津久光の率兵上京で破綻し,同2年,周布や木戸の主導による攘夷方針に大きく転換した。敬親は公平な性格と評される一面,また病弱で藩内抗争の行方を追認する傾向があった。藩庁を山口に移し,文久3年5月外国艦を砲撃し,藩勢飛躍したが,同年8月18日の政変で藩は京都を追われ,翌年,禁門の変にも敗れ,官位を剥奪された。第1次長州征討が始まると,旧政府員多数を処刑して,謹慎した。しかし,藩内での元治の内戦後,木戸を中心とする割拠体制をつくり,薩長同盟を結び,洋式軍制改革に成功し,慶応2(1866)年の幕長戦争に勝った。同3年,キング提督と会見するなど,イギリスとの関係を確保し,討幕の密勅を受け,薩摩藩らと共に藩兵を上京させ王制復古のクーデタを成功させる。明治2(1869)年,薩摩藩主,土佐藩主らと版籍奉還を建白したのち家督を元徳に譲り,隠居。諡は忠正。<参考文献>末松謙澄『修訂防長回天史

(井上勝生)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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防府市歴史用語集の解説

毛利敬親

 萩藩の13代目藩主です。江戸時代の終わりごろ、借金の多くなった藩の財政を立て直すための改革(天保改革[てんぽうのかいかく])を行いました。養子の毛利元徳[もうりもとのり]とともに、幕末維新の萩藩の難しいかじとりにあたりました。

出典|ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版の解説

もうりたかちか【毛利敬親】

1819‐71(文政2‐明治4)
幕末の長州藩主。はじめ教明,慶親と名のり,のち敬親と改める。大膳大夫と称した。諡(おくりな)は忠正公。1837年(天保8)家督を継ぎ,村田清風を登用して天保藩政改革を推進した。61年(文久1)佐幕的開国策の航海遠略策を採用してみずからも運動したが,翌年,島津久光の率兵上京や幕政改革によって藩論を転換させざるをえなくなった。ただちに入京し,敬親臨席のもと木戸孝允や周布(すふ)政之助らの家臣と会議を開き,尊王攘夷の藩論と単独攘夷実行を決定した。

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大辞林 第三版の解説

もうりたかちか【毛利敬親】

1819~1871) 幕末の長州藩主。村田清風に藩政改革を行わせ、幕末動乱期には藩論に従って攘夷・討幕に突入。維新後、版籍奉還を建白。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

毛利敬親
もうりたかちか

[生]文政2(1819).2.10.
[没]明治4(1871).3.28. 山口
幕末の長州藩主。斉元の長子。幼名,猷之進。初め教明,慶親と称した。天保8 (1837) 年4月襲封。村田清風を重用して藩政改革に尽力。砲台建設,種痘奨励など洋式技術の導入にも意を用いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

毛利敬親
もうりたかちか
(1819―1871)

幕末維新期の大名。長州藩13代藩主。幼名猷之進(みちのしん)、名は初め慶親(よしちか)。11代藩主斉元(なりもと)の嫡子として出生。12代藩主斉広(なりとお)(10代斉煕(なりひろ)の子)が若年で死去したため、1837年(天保8)藩主となる。敬親は村田清風(せいふう)を抜擢(ばってき)し、38年から天保(てんぽう)の改革を実施する。これは31年の防長大一揆(いっき)の後を受け、藩政全般にわたる改革を実施し、富国強兵策を実現しようとするものであった。この改革は成果をあげ、藩財政は立ち直り、藩府要員のなかにも周布政之助(すふまさのすけ)などの人材が育った。63年(文久3)他藩に先駆けて攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)で外国船を砲撃する。しかし、64年(元治1)京都禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗退し、幕府の征長令を受け、官位・称号を奪われる。そこで諸隊を解散し、家老を処罰して恭順の意を表す。しかしながら藩内では討幕派が主導権を握り、65年(慶応1)には幕府軍を藩の四境(しきょう)で打ち破り、討幕派の先鋒(せんぽう)となる。69年(明治2)山口藩知事となるが、71年病死。[広田暢久]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の毛利敬親の言及

【防長風土注進案】より

…長州藩が天保改革を推進するため,領内の実態の把握を試み,全町村から差し出させた明細書。藩主毛利敬親(たかちか)は領内全域の町村に明細書の提出を求め,当職所に国郡志御用掛を置き,1842年(天保13)近藤芳樹にその編纂を命じた。本文395冊,古文書45冊。…

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