杣山城(読み)そまやまじょう

日本の城がわかる事典 「杣山城」の解説

そまやまじょう【杣山城】

福井県南条郡南越前町(旧南条町)にあった中世の山城(やまじろ)。旧南条町の南東部、岩石がそそり立つ峻険な杣山(標高492m)の山中に築かれていた城である。杣山の中腹本丸が置かれ、山頂部には、その詰城があった。鎌倉時代初期に源頼親が城郭を築いたことを起源とするという伝承がある。鎌倉時代中期には瓜生衛が居城として再築し、以後、瓜生氏の居城となった。南北朝時代初期、杣山城を本拠とした瓜生氏は南朝方に属したことから、越前国における南朝方の拠点の城の一つとなった。1336年(建武3・延元1)、足利尊氏が上洛すると、後醍醐天皇に従った新田義貞は、恒良親王、尊良親王を奉じて都を逃れ金ケ崎城(敦賀市)に入城した。その金ヶ崎城が足利方(北朝方)の越前国守護斯波高経らの大軍に包囲され糧道を断たれると、義貞は金ヶ崎城を脱出して杣山城に入り、この城を拠点に体勢を立て直し、足利氏に対抗した。義貞は金ヶ崎城の救援に向かったが、敦賀市樫曲付近にて戦死し、金ヶ崎城も落城。続いて、杣山城も足利方の攻撃を受けて落城し、北朝方の斯波高経の家老であった増沢甲斐守祐徳が入城した。増沢甲斐守はその後、守護代の朝倉氏と反目し、1470年(文明2)に、朝倉孝景が日野川の合戦で斯波方(増沢甲斐守)を破った後、杣山城は朝倉氏の属城となり、家臣の河合宗清が入城し、居城とした。その後、1514年(永正11)に、朝倉氏に反攻する越前の一向一揆勢が立て籠もるということもあったが、総じて朝倉氏の属城となった。織田信長により朝倉氏が滅ぼされた後、一向一揆勢が再び立て籠もったが、信長の越前平定の際に落城し、その後、廃城となった。山中には、足利方が杣山を攻めた際、新田義貞の内室の匂当内侍が身を隠したといわれる姫穴や、山頂部には城主の瓜生保の戦死の知らせを聞いた夫人や女房たちが身を投げたとという伝承が残る袿掛岩がある。JR北陸本線南条駅からタクシーまたは徒歩。杣山はハイキングコースが整備され、山頂に至る登山口が3ヵ所ある。

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百科事典マイペディア 「杣山城」の意味・わかりやすい解説

杣山城【そまやまじょう】

福井県南条町(現・南越前町)の杣山(492m)山頂にあった中世の城で,麓に居館があった。杣山は北流する日野川とその支流に三方を囲まれ,一方は急崖をなす天険の要害で,日野川左岸を走る北陸街道を押さえる好位置である。築城時期は南北朝内乱期とみられ,杣山荘の地頭瓜生氏一族の瓜生判官保とその兄弟が当城に拠り,南朝方として新田義貞の弟脇屋義助の子義治を大将に迎え,義貞や恒良・尊良両親王がたてこもった敦賀の金崎(かねがさき)城を援護した。1337年3月糧食の尽きた金崎城から脱出した義貞・義助の兄弟は当城に移り,金崎落城後はここを拠点に諸方の南朝軍を糾合,やがて府中(福井県越前市武生)を攻略するが,1341年北朝方に攻められて落城した。このころ越前・若狭守護斯波(しば)高経は北朝方として各地を転戦,金崎城攻めでも指揮をとったが,のち室町幕府と対立,1366年越前に下り杣山城に入った。将軍足利義詮は討手を送り,城は包囲されたが落ちず,翌年高経は病没した。その後も斯波方の城として存続したとみられ,1474年朝倉孝景は斯波方の宿老増沢甲斐守の拠る当城を攻め落としている。戦国期には朝倉氏の臣河合宗清が拠ったという。1970年代に城と居館跡が発掘調査され,建物の礎石が数ヵ所発見されている。国指定史跡。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「杣山城」の意味・わかりやすい解説

杣山城
そまやまじょう

南北朝期~戦国期の城。福井県南越前(みなみえちぜん)町阿久和(あくわ)にある。金ヶ崎(かながさき)城(敦賀(つるが)市)とともに、この方面における南朝方の拠点であったが、1338年(延元3・暦応1)6000余の足利(あしかが)勢に攻められて落城した。のち斯波(しば)氏の臣増沢甲斐守(ますざわかいのかみ)が拠(よ)り、さらに朝倉氏の時代には河合宗清(かわいむねきよ)が守っていた。1574年(天正2)の越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)の蜂起(ほうき)のときには一揆勢が立てこもっている。現在、山頂には本丸、二の丸に相当する櫓(やぐら)跡および西御殿という二つの平場が残る。

[小和田哲男]

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改訂新版 世界大百科事典 「杣山城」の意味・わかりやすい解説

杣山城 (そまやまじょう)

福井県南条郡南越前町の旧南条町にある南北朝・室町時代の城。府中(越前市の旧武生市)から大塩,鯖波(旧南条町),湯尾,敦賀へと通じる北陸街道の鯖波宿から少し東に標高492mの杣山がある。城は麓の阿久和谷に展開する居館群と山頂の山城とから成る。1337年(延元2・建武4)瓜生保・重・照・義鑑房らの兄弟が脇屋義助を擁してここに拠り,敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞らに呼応して戦った話は《太平記》等に詳しく有名である。その後66年(正平21・貞治5)には,室町幕府に背いた斯波高経がこの城に拠り,翌年城中に没し,1474年(文明6)には,台頭する朝倉氏と旧勢力の斯波氏,甲斐氏がここに争った。戦国時代には朝倉氏の家臣河合氏がここに拠ったと伝えるが,詳細は明らかでない。1973-77年,山城および麓の居館の一部が発掘調査されたが,出土品はいずれも14~15世紀のもので,上記杣山城の存続期間と一致している。
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世界大百科事典(旧版)内の杣山城の言及

【南条[町]】より

…北陸本線が通じ,北接する武生市への通勤者も多い。町の南端にある杣(そま)山には,南北朝時代に南朝方の瓜生氏の拠った杣山城跡(史)があり,一帯は森林公園になっている。【上田 雅子】。…

【新田義貞】より

…尊氏が8月持明院統の光明天皇を擁立したため南北朝が並立した。義貞は北国に南軍の拠点を築くべく恒良・尊良両親王を奉じて越前に下り,金崎(かねがさき)城,杣山(そまやま)城を根城に力戦を重ねたが,38年藤島の戦で戦死した。【森 茂暁】。…

※「杣山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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