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南北朝期~戦国期の城。福井県南越前(みなみえちぜん)町阿久和(あくわ)にある。金ヶ崎(かながさき)城(敦賀(つるが)市)とともに、この方面における南朝方の拠点であったが、1338年(延元3・暦応1)6000余の足利(あしかが)勢に攻められて落城した。のち斯波(しば)氏の臣増沢甲斐守(ますざわかいのかみ)が拠(よ)り、さらに朝倉氏の時代には河合宗清(かわいむねきよ)が守っていた。1574年(天正2)の越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)の蜂起(ほうき)のときには一揆勢が立てこもっている。現在、山頂には本丸、二の丸に相当する櫓(やぐら)跡および西御殿という二つの平場が残る。
[小和田哲男]
福井県南条郡南越前町の旧南条町にある南北朝・室町時代の城。府中(越前市の旧武生市)から大塩,鯖波(旧南条町),湯尾,敦賀へと通じる北陸街道の鯖波宿から少し東に標高492mの杣山がある。城は麓の阿久和谷に展開する居館群と山頂の山城とから成る。1337年(延元2・建武4)瓜生保・重・照・義鑑房らの兄弟が脇屋義助を擁してここに拠り,敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞らに呼応して戦った話は《太平記》等に詳しく有名である。その後66年(正平21・貞治5)には,室町幕府に背いた斯波高経がこの城に拠り,翌年城中に没し,1474年(文明6)には,台頭する朝倉氏と旧勢力の斯波氏,甲斐氏がここに争った。戦国時代には朝倉氏の家臣河合氏がここに拠ったと伝えるが,詳細は明らかでない。1973-77年,山城および麓の居館の一部が発掘調査されたが,出土品はいずれも14~15世紀のもので,上記杣山城の存続期間と一致している。
執筆者:水藤 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…北陸本線が通じ,北接する武生市への通勤者も多い。町の南端にある杣(そま)山には,南北朝時代に南朝方の瓜生氏の拠った杣山城跡(史)があり,一帯は森林公園になっている。【上田 雅子】。…
…尊氏が8月持明院統の光明天皇を擁立したため南北朝が並立した。義貞は北国に南軍の拠点を築くべく恒良・尊良両親王を奉じて越前に下り,金崎(かねがさき)城,杣山(そまやま)城を根城に力戦を重ねたが,38年藤島の戦で戦死した。【森 茂暁】。…
※「杣山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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